医務室に向かう前、執務室でつぶやいた「毎度、面倒だ」という呟きをウォルターに聞き咎められ、それについて小言的な執事の見解を聞かされた当主は、眉根を寄せて歩いていた。
―― ウォルターはあの歳になっても、聴力が衰えるということがないらしいな
インテグラのわずか呟き程度に零した言葉尻をとっ捕まえたウォルターは、嫌味なほど丁寧な執事の笑みを作って、『当主の心得』をやんわりと彼女に諭したのだった。
「体調管理も、仕事の内かぁ」
そうポツリと呟いた女当主は、医務室前の受付の女性に声を掛け室内へと入っていった。
月に一度の定期検診。担当してくれたのは、この屋敷に昔から勤める顔なじみの女性の看護士だった。インテグラより十歳は年上だろうと思われる落ち着いた大人の女性は、事務的に淡々と仕事をこなすのに、その所作には冷たいものがないベテランの安心して任せられる看護士だった。
採血するためにゴムチューブをしっかかりと腕に結わえつけるその看護士の手は、なめらかな大理石のような肌を持っていた。その透明な肌の下には仄かなピンク色が滲んでいて、女の自分が見てもそれは大層魅力的だと思える。
人には言った事がないが、自分の肌に多少なりとも劣等感を抱いているインテグラは、それを眺めながら「貴女の肌はとても綺麗だな」と低く呟いて、採血用の注射器の準備に取り掛かった看護士を仰ぎ見た。
冷たい湖面のようなような凍てつくほどに冴えた『魔女のような』と呼ばれる顔と、霹靂(はたた)の神の如き大地を揺るがすほどの激震を部隊のものに落とす恐れるべき上官の顔。このふたつの顔を持つ女指揮官は、普段はとてもとっつき難いのだ。なのにこの高貴な女性は、時折こうやって人を魅惑する眼つきで語りかける。
褐色の肌から覗く紺碧の瞳で見つめられた看護士の女は、何故かうっすらと頬を染めて、女局長の腕をアルコールで消毒しながら言葉を返した。
「私は局長の肌の方が断然綺麗だと思います。だってとてもキメが細やかだし、その蜂蜜色の肌はとてもつややかで温かく美しい色合いですもの。そんなに美しい肌を愛でることが出来る局長の恋人が、羨ましく思えるくらいですよ」そう言って局長の腕の血管を探し当てた看護士は、「針を刺しますね」と言うと手早く採血のための注射器を肌にプツリと刺した。
「そ、そんな、恋人なんぞ私にはおらん」そう言った局長の頬は紅潮していて、それは痛みのためというより、ある特定の人物を思い出したから―― のように、看護士は感じた。
「局長ほどの方に恋人がいらっしゃらないなんて、あまりにも見え透いた嘘ですわ。実は私、いつも緊張するんです。局長のこの綺麗な肌に、注射針や点滴の針で青痣をつけたりしたら、局長の恋人に憤慨されて怒られるんじゃないかって。いつもドキドキなんですよ」
ドキドキしているという割には、落ち着いた手つきで手早く採血を終えた看護士は、僅かに出血した腕の痕をテープで止血する。
「でも、もしそんな事があったら、局長の恋人を拝顔できる又とない好機なんですけどね」
そう言って、目だけでチャーミングに笑って見せてから「痛くなかったですか?」と看護士は優しい声音で訊くのだった。
大人の女の余裕の微笑で優しく見つめられた局長は、「ああ、痛くない」と言って頷くと、薄紅色に淡く染まった頬をぷいっと背けた。注射器の中の真紅の液体が不死の王と呼ばれる吸血鬼を魅了して止まない「中毒性の媚薬」とも知らない看護士は、試験管のような容器にそれを移しながら、滅多に見られない可愛らしい局長の風情を見た。
―― あら局長、照れていらっしゃる!
鋼鉄の女が普段は覆い隠している、可愛らしい少女のような意外な風情を見て、看護士の女は口元に微笑を漏らした。
心電図を計測する機械が脇に据えつけてあるベッドに横になったインテグラは、看護士に促されるままにシャツのボタンを全部肌蹴ける。そして身にまとっていた、とても繊細なレースで作られた肌の色に近い濃いベージュのブラジャーのフロントホックを外して、ハリのある胸を曝け出した。
弾力のある胸は重力にしたがって、水が入った風船のように両脇へと少し流れたが、それでも形良く前にツンと突き出された胸はとても魅力的に見えた。その蜂蜜色をした形良い胸を見た看護士は、ほんのわずか目を見開いたようだったが、余計なことは何も言わず、淡々と業務をこなしていく。
「局長、心電図を撮る為のクリップを両手と両足に、それと吸盤状のものを左胸に取り付けますね。冷たくてちょっとビックリするかもしれませんが、我慢してください」
そう言いながら看護士は手際よくクリップを両手と両足にとめていく。そのひんやりした感触は、自分の手首や足首を掴むあの吸血鬼の手を思い出させる冷たさだった。
その感触に昨夜の従僕の淫猥な振る舞いを思い出したインテグラは眉根を僅かに寄せる。脳裏に浮かんだのは、紫紺の夜の中で艶やかな微笑を浮べていた下僕の顔。それを忘れようと、インテグラは頭を軽く振る。しかしその後、左の胸につけられた器具の冷たさに、下僕が落とした情欲に彩られた口づけをインテグラは更に克明に思い出すのだった。
ひんやりとした冷たい器具が左の乳房に次々と取り付けられるたびに、インテグラは昨夜の情事を思い出し、肌をわずかに上気させる。その冷たい器具が乳房に触れるたび、女主はあの吸血鬼が持つ冷たい唇が執拗に愛撫を与えた昨夜の情交を思い出してしまうのだ。冷えた死人の唇が、鼓動を刻む剥き出しのインテグラの左の胸の上を這いまわり、舌先でなぶり、立ち上がった乳首を甘く食み、きつく吸い上げる。その身体の芯を揺さぶる甘い快楽に、昨夜自分は我慢しきれずに甘い鳴き声を上げてしまい、「夜鶯鳥(ナイチンゲール)のようだ」と、あの男は厭らしく笑って揶揄したのだ。
左胸の下、脇の下に近い敏感な場所に器具を取り付けられたとき、インテグラはその感触に息を呑む。そのあまりにも敏感に反応する場所は、昨日の夜更け、あの男の唇がさんざん這い回って、自分を身悶えるほど苛んだ場所だった。
インテグラがビクンと身体を揺らしたのを見た看護士は「冷たかったですか?申し訳ございません」と声をかける。それに対し「いや、大丈夫だ。」と応えた局長の声は、低いのに何故か艶が含まれているのだった。
検査はわずかの時間で終了し、器具を外し終わったインテグラは、ベッドの上に起き上がると衣類を整えようとする。するとその時、看護士の女が声を潜めてそっとインテグラに耳打ちをしたのだった。
「インテグラ様の恋人は、とても情熱家でいらっしゃるんですね。それにとても独占欲が強い殿方のようでいらっしゃる」そう言って大人の女の笑みを見せた看護士は、すうっとその場を離れてカーテンの外へと出て行った。
―― えっ?一体何を言ってるんだ??
訝しげに思ったインテグラは、あの看護士は自分の頭の中身を覗ける能力でもあるのだろうか?!と一瞬思ったのだが、直ぐにその言葉の意味を理解した。着けようと思った下着に手をやったとき、インテグラは自分の左胸脇に色濃い赤で残された、化け物が刻んだ情欲と熱情の複数の痕を見て、両眉を跳ね上げた。
その熱情の赤の刻印(スペル)は、あからさまに吸血鬼の独占欲を表したものだった。
この女は、私だけの主だと。
自分が唯ひとり仕えるべき、女王(おんなあるじ)だと。
そう主張するような、所有を表す赤の刻印。
「ッ!!あの馬鹿野郎っ!」高潔なのに激情を秘める女主は、小さく舌打ちしてからそう悪態をつく。
罵倒しようが抵抗しようが、それでも暴力に等しい手荒さで、化け物の情欲を自分に刻み付けるあの男を、どうしてくれようかッ!? インテグラは頬を紅潮させ下僕への躾を考えつつも、手早く身支度を整える。ジャケットを着込み、タイ留めをした頃には、いつもの局長の強面で自分を覆い隠し、執務室に戻る心の準備を整える。そしてインテグラは強面の局長の顔を作り上げてから、看護士に声を掛けて医務室を後にするのだった。
その晩、執務室にソワレの挨拶をしに現れたアーカードは、主のご機嫌斜めの厳しい眼差しに、いつもの如く無表情を保っていたが、夜更けに忍び込んだ主の寝室でも徹底した無視を決め込まれると、そのあまりにも冷たい美しい青の瞳を見つめて、苦笑を漏らした。
この不死者(ノスフェラトゥ)には、法儀礼済みの銃弾や剣よりも、美しく潔癖な女主人(おんなあるじ)からの『居ないが如きに扱われる』仕打ちの方が、余程、効き目があるのだ。
その事実をインテグラは知る由もなかったのだが、それでも従僕に気付かぬ内に、わずかながらも仕返しをするのだった。
2008.7.14のブログより