「葉巻はいい加減止めたらどうなのだ、我が主人」

黄金色からゼラニウムレッドの色合いに変わりつつある陽が窓から射し込み、長い長い影が生み出される紫の刻の入り口に差し掛かる時間帯。

執務室でパソコンのキーボードにポロリと落とした葉巻の燃えカスに大慌てして淑女にあるまじき声を張り上げて悪態をついていたあるじの前に、いつの間にかぬうっと立っていた男はそう低い声で半ば呆れたように言った。

成熟した婦人にあるまじき悪口を吐きながら、持ち上げたキーボードを逆さにし、バッサバッサと乱暴に振って灰を払っていた女はキッとした冷たい青の視線を男に向けるとチッと舌打ちをした。

この男は相変わらずノックもしないし、ドアから行儀よく入ることも出来ないのだ。

―― こいつが失踪している30年の間に、弟子の女はあれだけ成長したというのに、この馬鹿はちっとも成長しないんだな!!

失態を盗み見られた女は、ひとつだけ残された貴重なブルーダイヤのような瞳を細めると、まるで八つ当たりのように下僕を鋭く睨みつけた。

ふんっとこれ見よがしに大きく鼻を鳴らした女は椅子に腰掛けてキーボードを机の定位置に戻すと、ポケットから取り出したマニッシュな姿に似合わぬ繊細なアジアンテイストの模様が綴られた汕頭刺繍の白のハンカチを取り出して、汚してしまったキーを丁寧にふき取はじめる。

そしてその作業を終えると、濃いゼラニウムの赤に染まった傾いた陽射しの中で黙って佇んでいる自分の従僕に向かって、ようやく口を開いた。

相変わらずの無礼な従僕の訪問の仕方に、彼女は芝居の口上を述べるが如く、いつもの小言を飽きもせず、その唇から滑らかに紡ぎだしはじめるのだった。


一通り、従僕にいつもの小言を述べたインテグラは、クイッと口の片端を上げると、そこでやっと従僕の忠告に返事をした。

「葉巻を止めるなんぞ、無理だな。私は、これなしには生きてなど居られんよ、従僕」

そう言った女は、目尻に刻まれたシワをさらに深くすると、また葉巻に手を伸ばした。

「それは中毒というものだ、インテグラ」男が、揶揄を含んだ笑いを口元に薄く刷いて、皮肉気にそう言った。

「煩いな!わかってるッ!!セラスみたいな事を言うな。そんなことは、別にお前から言われる筋合いでもない」

―― 何だって言うんだ、どいつもこいつも!何で吸血鬼たちから、そんな小言を喰らわねばならんのだ!!

女はイライラしながら、手に取った葉巻の先をカットする。

「シワが増えてきただの、肌が荒れてカサカサするだの、そんな愚痴を零すのに、今だ葉巻をやめられんのは解せんと思うのだがね、御主人様」

男が慇懃過ぎる、丁寧な口調でそう言う。その丁寧過ぎる言葉使いは、あからさまに女を揶揄するものでしかなかったが。

その言葉を聴いた女は内心ギクリとし、ライターに向かって伸ばそうとしていた手を止める。そして、火のついていない葉巻をプラプラと艶やかな唇に咥え、下から掬うように男を見上げた。

「どうせ歳も歳なんだ。今更シワの1本、2本増えたところで、何が変わるものでもなし」インテグラは眉を顰め、そう冷たい声で自分に言い聞かせるように言った。

「ほおぅ!何が変わるものでもなしと、そう云うのか?」

男は秀麗な口元に嘲笑の笑いを作ると、行儀悪く執務机の端に腰を乗せ、身をひねるようにしてインテグラの方へ上半身を乗り出した。

「その割には気にしているようだったがな、お嬢さん」

おばあちゃんになってしまった自分を『お嬢さん』呼ばわり出来るほど、恐ろしく歳を経てはいるが、実際のところは『老い』を知らないこの化け物に、そんなことを言われるのは我慢ならぬと、女は眉を吊り上げた。

「気にはしているさ、吸血鬼。顔に刻まれていく皺は、如実に老いを表すものだからな。全てが衰えて、思うように身体が動かなくなり、あらゆる機能も衰弱していく、そんな過程を如実に表すものだ。気にならぬ訳はなかろう、吸血鬼(アーカード)」女はそう言うと、咥えていた葉巻を手にとってくるくると弄ぶ。

「私はお前と違って人間だからな。有限の短い生命を謳歌するために生まれ、それをまっとうして死んでいく。そう言う存在だ。老いることは、死ぬことを考えることでもあるし、死を考えることは、生きることでもある」

『煙草はお肌に良くないんですよ!!シワや肌荒れの原因なんですってば!』と、あの娘からも言われるが、それでも止められん事だってあるさ。毒だとわかっていても、それによって得られる悦楽に身を浸さずには居られぬものだよ、人間は。まったく困ったものだ......女主はそんな事を、まったく困っていないように飄々と呟いてから、弄んでいた葉巻をそっと机の上に置いた。

男から揶揄されてさらに意固地になり、これ見よがしにそれを口に含むほどの我を押し通す強情さは、今のこの成熟した女にはないらしい。負けん気の強さは相変わらずなのに、小娘だった頃とは違って無駄に強情を張る愚かさを知った、時折、豊潤で艶めいた輝きを零して微笑するようになった女は、今はその毒でもある快楽を我慢したようだった。

「『老い』は総じて哀しいものだ。だがそれによって、ようやく見えてくるものが確実にあるものだぞ、吸血鬼。そんなことすら知る事が叶わぬ、ただ諾々と年を重ねることしか出来ぬ化け物が『不死者の王』などとは片腹痛い。そう思わんかね、アーカード」女はそう言うと、皮肉が含まれているのに、馥郁とした豊潤さが零れるような、あの美しい笑いを浮かべて、従僕を見上げた。

執務机に行儀悪く、だが優雅に腰掛けていた男は、その豊潤に香る美しい女主人の顔を無表情で覗き込んでいたが、赤の瞳を細めると、「こんな年端もいかぬ小娘に言われるのも片腹痛いが、まぁ確かに、化け物には量れぬことがあるのは、多少は認めよう」と、素直ではない同意を示し、満足げな微笑を口の端に浮かべた のだった。

 ―― 毒だとわかっていても、それによって得られる悦楽に身を浸さずには居られぬものだ。

女の吐いたその言葉を、鼓動を刻まぬ冷たい心の中で反復した男は、シワが刻まれた美しいインテグラの顔を、赫の視線で見つめる。

この人間の女の影には、毒が含まれているのだ。

それはいつかは自分を滅ぼすかもしれぬものなのに、その痺れるような甘美な毒は、己の『人間の手によって滅ぼされなければならぬ』と言う化け物じみた妄執に絡みつき、心地よい束縛を与えるものなのだ。

男はそんな事を考えながら、魔物の赫の視線に力を込める。

三十年の月日を越えても、変わらずに高潔な魂を持ち続けていた目の前の女は、化け物の己にとって毒だと判っていても、それによって得られる悦楽に身を浸さずには居られぬものなのだ。

何せこの女は、自分にとって、人間そのものでありその象徴のようなものなのだから。

以前は、月の雫を含んだようなプラチナゴールドの長い髪だったのに、今では太陽が零す黄金の汗を月の光に混ぜ込んだような、美しい白いプラチナの輝きにすっかり変わってしまった女主人の髪。

吸血鬼はその白さが増した長い髪を、天が織り成す貴重な絹糸のように、グローブを脱いだ手にそっと掬い取った。

そしてアーカードは、その女主人の髪を、白蝋色した長い指先にくるくると巻きつける。

口の両端をニィっと引き上げ、乱杭歯を覗かせた吸血鬼は、秀麗なのに底には淫猥さをわずかに刷いた妖しい微笑を浮かべた。

「有限の短い生命を謳歌するために生まれた割には、あまりその人生を謳歌しておらぬと思えるのだが、いかがかね、我が主人」

急に人外の美しい微笑を作り、人を誑かすような声音を使い始めた従僕を訝しく思いつつ、女は引き出しに手を伸ばす。

「いや、十分に愉しんでいるよ、我が従僕。」

女が隻眼を細め、冷たい顔つきでそう応えると、男は優雅に首を振って、『困ったものだ』という顔を作った。

「いや、六百年近く存在してきた私から見れば、お前はまだまだ生命の歓喜を謳歌しておらぬとしか見えぬ。お前は人間の短い生命をもっと謳歌すべきだ、我が主。何せ、『人生の目的は、快楽を得ること』と、人は昔から言い伝えているからな」

「・・・・・・『人生の目的は、快楽を得ること』だと?何だ、その言い伝えは」

「カーマ・スートラにそうあるぞ、我が主。ちなみに黄金色の蓮の花びらのような滑らかな肌をして、美しい項と、白百合の香りの愛液(カーマ・サリラ)を持つお前は、カーマ・スートラで言う『蓮女(パドミニ)』だ。それは最高峰の女であり、男に最上の快楽を与えられる女だそうだ、我が主」

そして魔物の男は、冷酷な顔に妖しい微笑を浮かべてくつりと小さく笑った。

「蓮女(パドミニ)は昼の交合を好むと言われるが、お前もそうなのか、インテグラ?」

人外のものしか作りえぬ妖美な顔でそう言いながら微笑した男は、指に巻いた美しいプラチナ色した髪を引寄せて、女の唇を貪ろうとした。

その端整な顔に、美しくも妖しい淫猥な微笑を浮かべる魔族の男の額に向けて、引き出しから取り出した小型のオールドタイプのリボルバーの銃口をグリグリと押し当てたインテグラは、ヒクヒクと片頬を引きつらせた。

「キリスト教圏のセオリーを引き摺る化け物のお前が、インドの性愛論書を持ち出して、何が言い伝えだ、この馬鹿ッ!こんなおばあちゃんを相手に盛るなんて、お前はどんな嗜好の持ち主なんだ!?陽が照るうちから、誰が房事なんぞするものか!この放蕩過ぎる吸血鬼めっ!」

蓮女と謂われた女主人は、「房事過多は短命を招くんだぞ、この馬鹿犬めっ!」と、自分もそんな東洋の医学俗説を引用しながら、己に血飛沫が降りかかるのも、執務室の机が化け物の血で汚れるのもかまわずに、相変わらず剛毅で豪胆な性格のまま、その銃口の引き金を引く。

昔と相変わらずの、躊躇も容赦も情けもない蓮女の怒気に、彼女へと思慕を寄せる化け物の従僕は、冷たい吐息で『はぁ・・・・・・』と密かに嘆息するのだった。



2009.6.18

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参考文献

「カーマスートラ 完訳」 東洋文庫 著/ヴァーツヤーヤナ 訳/岩本 裕

「バートン版 カーマ・スートラ」 角川文庫 著/ヴァーツヤーヤナ 訳/大場 正史

カーマスートラには女性の順位付けがあり、上から「蓮女」、「 芸女」、「貝女」、「象女」となります。

蓮女(はすめ)と云えば日本ではあんまりいい意味の形容ではないんですが、インドで蓮女(パドミニ)とは、極上の女でラクシュミーを象徴するものに変わるようです。

『肌は金色の蓮の花のようにキメ細やかで柔和で美しく、決して浅黒くはない。目は子鹿のようで美しく輝き、ぱっちりとして目尻はやや赤味がかっている。乳房は固く締まり且つ豊かに盛りあがり、項はすっきりと美しい・・・』(その後も女性器の形から愛液の匂いまで、パドミニの条件が細かく書かれてます。)

主は、アーカードにとっての蓮女であろう、と言う、そんな話。


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