「なんだ、それは。一体何をしてるんだ?!」
低いがよく通る男の声が、心底不思議そうにその様子を見て呟く。
このところ出動が無く、暇を持て余していたのだろう従僕がふらっと主の部屋に立ち寄った。
いや、正しくは「立ち寄った」と云うのではなく、霧に姿を変えたこの吸血鬼が三階にあるバルコニーから勝手に掃き出し窓の鍵をその異端の能力で事も無くこじ開け、主の了解無く「侵入してきた」と言うべきだった。
主の部屋に置かれたそれは、スツールのようなものだったが、座面はまるで鞍だった。その上、そのスツールからは電源の長いコードが出ており、それがコンセントまで繋がっている。そして、そのスツールは何と動いているのだ!
それに跨って体を動かしている主の様子は、そう、あれだ!乗馬といった態だった。
―― この鞍のような椅子は、いったい何だ?我が主はいったい何をしているんだ??
電化製品などに無縁な魔界の住人は、それが何なのか不思議に思ったようだ。
主の女は、勝手に夜の主の私室に断りも無く、それも窓から異形の形態で侵入してきた男に、ひとしきりいつもの小言を言ってから、その動く椅子の電源をオフにする。その椅子の動きが止まると、やれやれといった態で椅子から立ち上がった。
そして冷たい一瞥を投げかけて、億劫そうに従僕に疑問の答えを返した。
「これは、『JOBA(ジョーバ)』と言ういうもので、東洋のエレクトロニクスメーカーが開発した乗馬運動に基づいたフィットネス健康機器だそうだ。最近、馬に乗る機会が少なくなって、乗馬で汗を流す機会がなくなったとウォルターに言ったら、これを用意してくれたんだ」
「これは、屋敷の中で騎乗の戦闘訓練をするために開発された、軍事訓練機器なのか?」
この吸血鬼の知識としては、乗馬というのは「戦闘」そのもの。
馬を駆るということは、貴族の嗜みでもあるが、それ以前に戦争で圧倒的な優位性を誇示する優れた戦闘能力を発揮するものである、という考えしかない男なのである。
そう......そんな古い時代から存在している、アナトリア出の猛攻を誇った騎馬民族で構成されたヨーロッパとアジアにまたがる大国と戦った、魔物の男なのだ。
乗馬がスポーツである......そんな考えは、この男の灰色の頭脳の中には全く無いのである。戦闘以外の目的で馬を使うといえば、荷物の運搬や長距離の移動。まあ、そんな発想かもしれない。
すでに初歩の段階で、全く話がかみ合っていないことにピンときた女主は、眉根を寄せて、眉間にシワを作る。
―― いったいこの男は、どんだけ時代がズレている時代錯誤の戦争馬鹿なんだ?!今時、騎馬訓練に重点を置く軍団がどれだけあるというのだ?!銃器類の知識はあるくせに、根本的な所で時代が止まってるぞ、この化け物は!!お前はドイツ第三帝国の戦車隊に騎馬で突撃したポーランド騎兵隊か?!
「あのなぁ、アーカード。乗馬は今の英国貴族の中では単なるスポーツなのだ。騎士の名残もあり、それは貴族の嗜み、紳士と淑女の嗜みではあるが、決して騎乗して弓矢や槍、剣を振るう訓練はせんのだ。もちろん、騎射の訓練もせん。」
男の疑問に丁寧に答えてやる女主。
もともと心根が優しく真っ直ぐな女は、人が無知である分野につけ込んで、それで人を貶めたり侮辱することは決してしないのだ。そしてそれは、人の上に立つ指揮官がけっしてやってはいけない「敵をつくる」行為でもある。それで辱めや屈辱を味わった人間は、その指揮官をいつ裏切ってやろうかと虎視眈々と隙を狙う身内の敵と成り果てる。
知らぬもの、教えを請うものには、説明してやるのがこの女の心情であり、指揮官としての流儀でもあるのだ。
「シンボルに成り果てたとは言え、今だ王を頂くこの英国(イングランド)にあっても、現代では貴族は騎乗訓練をしないというのか?」
馬という生き物が重要な位置をしめた時代を長いこと重ねてきたその男は、自分の常識に照らし合わせたその現在の流儀にいたく驚いたらしい。
中世以来、馬に乗るということは貴族の「特権」であったのだ。
それは貴族が忠誠を誓った領主に、兵力として優位性を誇るものが、己にあることを示すもの。貴族がその特権である「優位性」を捨て去るなど、考えもしなかったらしい。
その白皙に浮かぶ珍しい驚きの表情を、女主人は「この男が驚くなんぞ、とても珍しいものを見たぞ」と思いつつ眺める。
「そうだ。乗馬は騎乗訓練を伴った軍事訓練ではない。美しい姿勢を保ち、足腰を強化して、体を引き締めるためのスポーツなんだ。お前だって、知ってるだろ う?先の大戦だって、戦闘は戦車や車、戦闘機で行われたんだ。今時、騎乗訓練に重きを置く軍隊は皆無といっていいだろうな」
「確かに」そう言って、今日は禍々しい男は重々しく頷いた。
―― お前が先代から封じられる前から、「乗馬」はたぶんスポーツなんだろうけどな。そもそも動物に忌み嫌われる血を吸うお前が、馬に触れる機会はなかっただろうから、それすらわからなかったのかもしれん・・・・・・
この化け物の男は、禍々しい見た目とその暴力性を秘めた性格の割に、実はとても勉強家で読書家であるのを女は知っていた。知識では色々なことを知っているのだろうが、この男は化け物であるが故に、動物とは基本全く無縁なのだ。
普段は忌々しく苦々しい想いで男の顔を見ることが多いのだが、それを考えると少し哀惜に近い気持ちが浮かんでくる。
両眉を跳ね上げて、さも驚いたといった顔をしてJOBA(ジョーバ)を見ている従僕にため息をついてみせて、ゆっくりとソファに腰掛ける女主。
「しかし、私がこんな状況になったのは、お前が原因なんだぞ、吸血鬼め。お前が我が屋敷にいた馬たちを怯えさせるからこんなことになったんだ」
彼女がまだ少女といっていい年頃だった時分には、この屋敷には馬たちがいたのだ。
彼女が遠乗りを終え、馬屋で馬の手入れをしていた黄昏時、この変に律儀なところがある従僕が馬屋に居る主のもとに、わざわざソワレの挨拶をしにやってきた事があった。そしてそれは、未曾有の馬屋の大混乱を引き起こしたのだ。
動物たち、それも草食の動物たちから見れば、この男は完全に肉食の猛獣と同じ気配を持った凶暴なものであったらしい。もとから気配に敏感で、乗り手の心情も察するのに長けた生き物たちは、この最凶な捕食する側に属する魔物の出現に、恐慌をきたしたのだ。
馬たちが暴れだし逃げ出す大変な危機的状況。華奢な少女であった当主の女が踏みつけられ、蹴り上げられて単なる肉塊になる危険な場面であったのだ。
まあ、恐慌の原因の男が、自分の主を危機的状況から守ったのは当たり前のことであったのだが。
「ああ......そんなことがあった気がするな」男は白々しく返事をする。
昼色のサングラスをかけていないその真っ赤な瞳は、発光するように瞬いていたが、すでに表情は無表情だった。
この男は、きっと分かっていたに違いない。
自らもあの生き物たちが、生活の中心を担っていた時代を過ごしてきたのだ。自分が近づけば、どんなことになるのか知っていてやったに違いないのだ。
「何が、『そんなことがあった気がする』だ!!この耄碌ジジィの吸血鬼が、とぼけるなッ!!怯える馬たちをこの屋敷で飼い続けるなんて、そんなことあまり にも不憫すぎるだろ!お前のせいで馬屋は取り壊す羽目になったんだ。特に気に入った数頭だけはクラブに預けることになったが、屋敷に馬がいないんじゃ、そう簡単に乗馬も出来ないだろうが。私は、馬を飼わずに吸血鬼のお前を飼う方を選ばざるを得なかったんだ、この馬鹿野郎ッ!!」
女主は、自分が馬たちを手放さなければならない原因を作ったその魔物の男を細めたブルーの瞳できつく睨みつける。
「そうか。それで屋敷で馬を飼うことをあきらめたお前は、これで乗馬の真似事をしていた訳なのだな。」
魔物の男は、無表情なのに声音だけは艶のある物言いで、そう主に確認した。
「ああ、そうだ。お前と違って私は忙しいんだ。明日からだって2日間会議に伴う出張だ。離れたクラブにまで行って、乗馬する時間など私にはないんだ」
まだ歳若い女局長は、明日からの過密なスケジュールを思い出し、眉間にシワを寄せる。そして、葉巻に手を伸ばして、火はつけずにただそれを咥えた。
そんな主の様子を眺め見ながら、さらに魔物の男は言葉を重ねる。
「お前にとって馬に乗るということは、訓練ではなく運動なのだな?」
相変わらず顔は無表情。なのに、声は低いがよく通る女を魅了するのに使われる魔声そのもの。それには人間を誑かす魔力が秘めれていた。
「そうだなぁ、乗馬は英国貴族の紳士・淑女を問わぬ嗜みと謂うこともあるが、どちらかと言えばスポーツと言ったほうがいいだろうな」
女は、そんな男の持つ魔力にはとんと無頓着だ。
不死の王(ノーライフ・キング)と呼ばれる男の魔眼にも魔声にも誑かされることの無い、鋼の防壁を備えている反魔物(アンチ・ミディアン)の筆頭指揮者なのだ。
その応え(いらえ)を受け取った男は、そこでニィっと人の悪い笑み作る。
「何だ、だったら馬の替わりに飼いならしている私に乗ればいいだろう、お嬢さん」
葉巻の先端をカットしようと、テーブルの上にあるそれへ手を伸ばそうとしていた女は、「はあ?」と言って理解不能な外国の言葉を聴いたような顔をして、動きを止めてしまう。
――今、こいつ何て言った?『馬の替わりに飼いならしている私に乗ればいいだろう』??
男の意図が分からず、頭のそこ彼処(かしこ)に『?』マークを浮かべながら、インテグラは首をかしげて従僕を見る。
「だから、運動ならば私に乗ればいいだろうと言ったんだ。」
男は、さも物分りの悪い女だと言わんばかりに片眉を跳ね上げた顔を作り、足音も立てずに女に近づく。そして、ただ男をソファから見上げるばかりの主を、まるで小麦が入った袋のように肩に担ぎ上げた。
「おっ......オイッ!!何するんだ、アーカード!ちょっと下ろせーーッ!!」
主には、男の意図が全く理解できていない。目に入るのは、この魔物の纏う緋色の衣装だけ。
宙ぶらりんの状態で逆さまにされた上、下僕に大声を出したので頭に血が上ってきてくらくらしてくる。
担ぎ上げた主の体の、魅惑的な引き締まったお尻の部分を肩に載せながら、従僕は音も立てずに静かに歩む。そして、事もあろうかその大きな手で引き締まった女の尻をぽふぽふと軽く叩き、細い艶のある、そして何やら含むもののある微笑を顔に刻んだ。
「何も、騎乗するのは馬だけとは限るまい、お嬢さん(インテグラ)。お前、男とセックスするのに『騎乗位』と言う体位があるのを知らん訳でもあるまい。」
傲岸不遜なこの魔物は、そう言って笑いながら手も使わずに寝室のドアを開ける。
「はあぁぁぁぁーーーーーッ?!男とセックスするって?!騎乗位って?!お前、処女の私に何言ってるんだぁぁーーーッ?!」
そう言う類には全く以って鈍感で疎い奥手の女ではあるが、もともとこの魔物の男の思考回路は、この女には理解しがたいものがあるのだ。
だが、これは何か非常に不味い方向に向かいつつあるらしい!!
ぶらぶらと逆さにつるされてゆすられながら、頭に血が上った状態でも何とかそうインテグラは認識する。この男が寝室のドアを開けて、ベッドに向かっていることを考えれば、それは間違いないだろう。
「そうか、我が主は処女(おとめ)だったな。しかし、騎乗位も知らんとは。アーサーや死神の男に随分と大切にされて育ったのだな。貴族の女の貞操観念とセックス観など地に落ちたものだと思っていたが、そうでもないようだ。いや、我が主だからこそ、そうなのか。」男は何故か嬉しそうな笑いを、口元に浮かべる。
「騎乗位とは女が男の体の上に乗って、その欲望の杭を体に納めて腰を振り快楽を貪る体位だ。お前のような人に命令することに慣れた指揮官の女なら、きっと お気に召すはずだ。まあ、初めてのセックスならば苦しいかもしれんが、次第に善くなる。それにこう見えても、私は初めての人間に教示するのは、なかなかに上手い。安心して私に任せろ、インテグラ。」
――何ッ!!!!これってもしかして貞操の危機ッ?!
従僕で吸血鬼で犬で戦争狂な化け物の男の肩に担がれて運ばれ、ベッドに下ろされてから、そこでやっと女は状況を把握する。女主のこの分野の鈍感さは、本当に感嘆すべきものがあった。
「ばッ、ばッッッ、馬鹿じゃないのか、この淫乱助平吸血鬼ッ!!!誰がお前に騎乗したいと言ったッ!お前は馬じゃないだろう、吸血鬼だろうがッ!!そんなお前の変態的嗜好を誰が許容するいうのだ、馬鹿者が!誰がお前に乗って運動したいと言ったっ、この阿呆ッ!!!」
女主は、顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、従僕の頬に平手をかます。
そして、その長く細い足で蹴り上げようとしたとき、従僕がその巨躯で自分の主を抑えつけてしまった。
その紅潮した主の顔を眺めつつ、魔物の男はこれ以上ない妖艶な美しい笑いを浮かべる。
「お前が騎乗したいというから、では、私に乗るがいいということでベッドに連れて来てやったのだがな。嫌だというなら仕方あるまい。では私が、我が主に騎乗させていただくことにしよう。
まあ初めてだし、男が上に乗って擦り上げ、突き上げてやった方がお前も楽に達(い)けるだろう。・・・・・・しかしお嬢さん、二十歳にもなろうかと云う歳なのに、お前は本当に初心(うぶ)だったんだな。」
それは世の女が見たら陶酔するような魅惑に満ちた魔物の笑み。細めた目元は艶やかな笑みを浮かべ、唇も酷薄そうなのにつやつやと輝きを放ち人を魅了するものだった。
しかし、その口から出たのはあまりにも品性の無さ過ぎる齢五百年以上を生きた、魔物の男の欲望そのもの。
「きさまッ――――誰がッ誰が、私の体に騎乗するだってぇ?」
従僕をきつく睨み据えながら、そう低く口にした女。
組み敷かれた女主の瞳は怒りのあまり明度を深め、深海のブルーと化していた。
そして、素早く枕の下に隠している拳銃を取り出し、傲岸不遜で自分の欲望に忠実な従僕に、容赦なく反撃する。
それを撃ち終えるた女主は、今度はベッド脇のボードの棚にあった拳銃を取り出して、さらに容赦なく従僕に応戦する。
結局、それらが叩き出す騒音を聞きつけた忠実な老執事や、配下の部隊がかけつけるにいたり、従僕はその晩に関しては、白旗を掲げざるを得ないのであった。
2008.2.27のブログより