この所、体調が芳しくない女指揮官は屋敷に併設された医務室に来ていた。過労と寝不足、それに貧血というのが検査の結果だったが、めまいが酷いためインテグラはここ数日、毎日医務室で点滴を受けていた。

医務室は清潔な白で統一されていた。白い部屋は無機質そのもので、白いシーツが敷かれたベッドに、これもまた白い枕カバー。どれも糊が効いていて、冷たい質感。そして窓には、白いカーテン。濃いアイボリー色をした導電性重歩行用のリノリュームの床も磨き抜かれていて、部屋はわずかなペールブルーのアクセントを効かせた、白一色といっていい静かで清廉なものだった。

その白のベッドに腰掛けた、めまい止めの点滴を終えたばかりの局長は、看護士の男の顔を直視しないようにそっぽを向いて座っていた。時代の流れなのか、外出している担当医の代わりに医務室でインテグラを検査しているのは男性の看護士だった。

部隊を率いる豪胆で剛毅な女指揮官は、実はこの看護士が苦手だったのだ。いや、正確に言えば、この男本人が苦手と言うわけではない。この男から連想させられる、あの従僕の仕草と声が苦手だったのだ。

男はとても端整な顔つきをしていて、幾分とがった顎に薄い酷薄そうな唇を持っていた。瞳の色は赤みが強いブラウンで、髪は癖を帯びた黒色。容姿もどことなく自分の従僕に似た美しいものだったが、何と言ってもその声質があの吸血鬼が人を誑かそうとする時に使う艶やかな声音にとても似ていたのだ。艶やかな濃紺の夜の色彩を帯びたベルヴェットボイスで囁かれると、女はついあの従僕を連想してしまうのだ。

看護士は細く長い節ばった指でアルコールに浸した脱脂綿を用意すると、ベッドに座る女指揮官の傍へとやって来る。

「採血しますね、局長。左の耳をこちらへ」男は低いがよく通る声でそう謂うと、インテグラは男に左側の顔を向ける。

「では、揉みますよ」

―― ちょっと!「揉みます」って何なんだよッ!!動詞だけでなく主語も言え!

男はただ単に女の耳たぶを採血しやすいように揉むだけなのだが、耳のそばで「揉みます」と呟かれたインテグラは何を連想したのか、すうっと顔を上気させほんのりと頬を赤らめる。看護士は顔を赤らめた女が緊張していると思い、さらに声音を優しくして語りかけた。

「では、刺します。ちょっと痛いけど我慢してください」

―― 「痛いけど我慢して」ってー!!もぉ!我慢出来んのはお前のその声だ!!

インテグラは心の中で叫んだが、大人しく俯いて従った。

ひんやりしたアルコールで消毒した後、ほんの少しチクッとしただけで採血はすぐに終わる。採血が終わったインテグラは我知らず「ほぉ」っと深いため息をついた。

その女の艶を秘めた憂いのため息を聴いた看護士は、口元に微笑を作って美しい月の女神のようなインテグラを眺める。

「豪胆で剛毅。尚且つ果敢で勇猛」と噂される有能な女指揮官は、部隊で恐れられるよう精錬な戦士とは違う一面を自分だけに見せてくれているのだ。

まだ歳若いこの女は、指揮官の仮面を剥いで歳相応な振る舞いをすると、とても魅力的な女性へ変身するのだと、看護士の男は意外な一面を垣間見て得をした気分になる。

その赤らんだ顔でそっぽを向いて、心もとなげに白い部屋に座っている女の脇へと、看護士の男は次の処置のための器具を運んだ。メタリックな冷たい輝きを放つワゴンに乗せて運ばれてきたのは、太い注射器と針、そしてゴムのチューブ。点滴を終えたばかりの上官には、この注射は辛いのかもしれないな―― と思いつつ、看護士の男はその栄養剤の入った注射の準備に取り掛かる。

「ヘルシング局長、左腕を出してください。」インテグラはそっぽをむいたまま、言われた通りに左腕を差し出した。

蜂蜜色の艶やかな肌を晒したその腕を軽く握った男は、その内側にアルコールを含ませた脱脂綿を押し付け、肌の上を何度も滑らせる。そのあまりにも冷たい感覚は、下僕の男が自分の肌に唇を触れさせ、舌を這わせて愛撫する様にとても似通っていて、その愛撫を思い出したインテグラは、今度は明らかに肌を紅潮させるのだった。

肌を赤く染めて俯く女局長を見た看護士は、「この方は余程、針を刺されるのがお嫌いなのだな」と考えるのだったが、女の紅潮は全く違う淫らな連想から来るものだった。

「では、縛りますよ」

女の腕にゴムチューブを宛がった男は、そう言って赤い顔で俯く女の腕を器用にゴムチューブで縛り上げる。

―― だからッ!もぉ、その声で「縛る」って言うな!この馬鹿ッ!!

インテグラは、またしても何かを思い出したらしく、内心で看護士へ罵声を浴びせたが、それはあくまでも心の中だけ。局長は、いかなる時も局員の前では、毅然とした振る舞いをしなければならないのだ。

しかし無機質で真っ白な清潔な部屋の中で、女は自分の鼓動が音を立てて脈打ち始めるを感じ取る。

―― この白い静謐な医務室で、いったい私は何を考えてるんだ!!

耳の奥で煩くうぁんうぁん響く虫の羽音のような自分の脈音を耳にした女は、下僕の男から与えられた淫らな夜の時間を思い出してしまう自分を叱咤する。

看護士はインテグラの思惑など知らぬまま、上官の腕から血管を探すとその上に針を刺した太い注射器を宛がった。

「さっきも挿れたばかりで辛いでしょう。でも、また挿れますよ。我慢してくださいね」

男はインテグラの耳元でさらに優しげな声音で呟き、細心の注意を払って女の血管に太い注射針を突き挿す。

―― さっきも、「挿れたばかり」って・・・もうっ!!「また挿れます」って何んなんだよ!そんなこと、言わなくてもいいのにッ、このバカッ!

インテグラは昨晩、従僕の男が耳元で吐いた淫猥な台詞を思い出してしまい、顔をさらに紅潮させて内心絶叫をかましたが、腕につき立てられたその痛みに身体を一瞬ピクンと硬直させると、出来るだけそっぽをむいて、看護士を無視しようと無駄な試みをするのだった。


治療と採血を終えた女は、ほとほと疲れたといった顔と足取りで医務室を後にする。

―― だれがあの傲岸不遜で不埒な下僕に似た看護士を、雇ったんだッ!?

採用したいと書類を持って来た執事が手にしていた履歴書にあった写真に、よく目を通さずにサインをした自分を、インテグラは激しく後悔した。これからずっと検査のたび、治療のたび、あの静謐な白い部屋で件(くだん)の看護士を相手にするかと思うと、それだけで疲れがどっと増す高潔な女指揮官だった。


後日、部隊では、医務室で治療を受けている間の女局長は、いたく美しく艶やかだそうな――― という噂が立ち、自分達の女上司が治療と検査をしている時間を狙って、医務室を訪なう輩(やから)が急増する。

しかし、当の女局長の身には、そんなことよりも、もっとやっかいな馬鹿馬鹿しい事案が降って湧いたように起こるのだ。

女の意思を無視してその手に強引に抱いたにも関わらず、『主の女には、自分だけが触れることを許されている』と思っている吸血鬼の男には、全く違う噂が別ルートから耳に入る事となったのだ。

化け物殲滅の特殊部隊を率いる剛毅で美しい女指揮官は、実は医務室の若い秀麗な看護士を愛人にして、毎日のようにそこに通い詰めているらしい―――

そんな根も葉もない噂を聞きつけた、多大な所有欲と高い矜持を持つ腹黒で暴力的な化け物の男を相手に、凛々しい女主人は後に大立回りを演じることとなるのであった。


2008.4.14のブログより

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