葉巻をくわえたままハンドルを握っていた女局長は、何やら前を蛇行しながら走る車に気がついて、少し車間距離をあけた。車との間合いを計ってこちらの車を停車させるのが目的だろうか? つけられていたか? ―― そう訝しく思ったのだが、中止すれば蛇行しているその車の後輪がパンクしていることに気がついた。

すると、タイヤがパンクしたことに知らずに前の車は走っているということになる。

「おい、危ないだろう」葉巻をくわえた艶やかな唇の隙間から低い声を吐き出した局長はクラクションを鳴らした。すると何を思ったか、フラフラと蛇行しながら、その車はスピードを上げる。

「・・・・・・おいおい」 大事故になる前に止めてやらねばいかんだろうな。あぁ......でもモタモタしてると、ひとりでフラっと抜け出した事がウォルターにばれるんだけどなぁ~

任務でも部隊の前でも、そして飼う化け物の前でも、いつもは剛毅で冷徹な女指揮官なのに、根が優しい彼女はアクセルを踏んでスピードを上げると危険極まりない蛇行運転の車を追い抜く。

―― 随分と若いお嬢さんだな

ガッチガチに固まって必死にハンドルを握る運転手を見てそう思った局長も十分にうら若い妙齢のお嬢さんなのであるが、その貴族のお嬢様である局長は口の端に皮肉たっぷりの不敵な笑いを浮かべると、ハンドルをきつく握り締めているその運転手に向けて、車を停止するよう促すのだった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「――― んんっ??何だって、いや、誰だって??」

ウォルターから告げられた名前を聞いて、全く心当たりがない女局長は執務机から顔を上げると、短くなった煙草を灰皿に軽く乗せるように置き、器用に片眉を上げてウォルターにそう尋ねた。

皮肉な笑いや不敵な笑いがこれほど似合う女性はロンドンを捜してもそう居ないだろう―― 執事はいつも思うのだが、最近こんな風に器用に片眉を上げられる芸当を覚えたのは、あの忌々しい現役ゴミ処理屋の影響ではなかろうか??と、老執事は考えながら、もう一度その名を主人に確認する。

「いや、全く心当たりがないな。姓だけだったら、知ってる奴は何人かいるが」

告げられた名を聴いて、首を傾げてそう言った女主に、執事は「では――」と、今名前を告げた女性の父親に当たる人物の名を今度は女主に告げる。

「知ってるぞ、その男だったら。陸軍の中尉だろ? ペンウッド卿から紹介されて何度か会っている。彼が何かしたのか?先ほど告げた女性の名前と、何か関係があるのか?」

そう疑問を口にして首を傾げ、眼鏡の奥の青い瞳に不思議そうな色を浮かべて自分を見る女主人に、執事は薄く笑った。

「お嬢様、この間なのですが御自分で運転なされて、屋敷の者に何も告げずにお出かけした事がありましたでしょう?」

「あぁ~~ まぁ、あったよな」

ちょっとした用で屋敷の者に知られたくないプライベートな事だったので黙って出かけたのだが、結局帰りが遅くなってしまい無断で抜け出たのがバレてしまったのだ。

その時の事を思い出した、女はわずかに眉を寄せる。

帰る予定だった時間をオーバーし、その一番の咎めを執事から食らったのは、彼女の秘密の外出に加担した車番の男だった。彼には随分と申し訳ないことをしたよなぁ~と、インテグラは一瞬目を泳がせた。

「その時、妙齢の女性をお助けした覚えはございませんか?」

「あぁ?・・・・・・あっ! あのパンク娘か?」そこでようやくインテグラも、執事の言いたかったことが飲み込めたようだった。

「お嬢さまの会議中、中尉殿より直接お電話をいただきました。先方のお嬢様の乗ったお車のタイヤの交換をヘルシング家の当主が自らして下さった事に親子共々御礼を申し上げたいとの、大層丁寧なお電話でございました。ついては是非お茶にお招きしたいとの事でございます」

「いや、いいって。礼はいらん。気持ちだけで十分だから」そう言って手をひらひらと振りまた葉巻を取り上げようとした女主に、執事はこれ以上ない、にこやかな笑顔を作った。

「陸軍での権力者の御好意を無下になさいますのは、ヘルシング家に取りまして利益にはなりますまい、お嬢様。大層熱心なご様子でお茶の席へとお誘いを頂いておりますので、ここは是非、当家と当機関の利益を御考慮されるのが宜しいかと思われます。それにあちら様には、複数の未婚の御子息もいらっしゃいますし」

―― こいつ......私に婿探しをしろと、そう言うことなのだな

一瞬、主従の間に火花が散るほどの鋭い視線が交差したが、ウォルターが相変わらず口元に笑いを刻んだまま、言葉を重ねる。

「そう言えばこの間の外出なのですが、機関の長たるお嬢様が外出の用件と行き先を言うことなく、黙って消えるが如くお姿を消すことについて、屋敷の―――」

もう、その件に関して突っ込まれたくなかった女は、片方の頬を持ち上げて煩そうな表情を見せると、執事の話をさえぎった。

「わかった、ウォルター。御礼の件は受けよう。茶会の詳細を後で伝えてくれ。それから、その支度も任せる」そう低い声で呟くように言うと、手にとった葉巻の灰をすうっと落とした。

「かしこまりました、お嬢様」深く礼をとったその屈んだ顔に、執事は満面の笑みを浮かべる。

だが女主が「あぁー、ウォルター。茶会の席では、スカートとかワンピースは絶対に着ないからな。ジャケットにトゥラザースで行くとメイド頭には伝えておいてくれ」と、ふんっと鼻を鳴らして紫煙とともに吐き出したその言葉に、老執事はチッと腹の中で舌打ちをすると面を下げたまま器用に片眉を上げたのだった。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「よく嗅ぎつけたな、この吸血鬼」

いくら薄曇だとは言え、まだまだ陽が高いこの時間に吸血鬼が闊歩する不条理を、この男は知らんのだろうか!と、女は眉を顰めて従僕の白皙を睨みつけた。

開けてもらった車のドアの先には、すでにこの男が待ち構えていたのだ。先に車に乗って待っていた従僕を、運転手は顔を引きつらせながら見て見ぬ振りをしている。

そう。いくらマチネ色のサングラスをして鍔広帽をかぶっているとは言え、こんな赤い瞳を有する魔眼の持ち主に、それも魔がしい狂暴な気配を隠した巨躯の男に、顔を向けることも、目を合わせることも、普通の人間は嫌うし、なかなか出来るものではない。もし出来たとするならば、それはこの男が自分が持つ「異能」を発揮して、人を魅了して誑かした場合だろう。

広い車内にも関わらず、この大きな男が座るだけで圧迫感が10割り増しだと思いながら、女主は嫌味たっぷりな顔をつくって男を睨んだ。

「下りろ、従僕」

「主人の護衛は、従僕の最大の務めだと思うがね、我が主」

「護衛はいる。それに、お前が出なければならんような危険な場所に行くわけじゃない」

「私の方がスマートに護衛出来るだろうが。姿を出すなとお前が命令するなら、隠れてやっていてもいいぞ、インテグラ」

「・・・・・・隠れてやっていてもいいって、お前―― それが主人に対する言い草か、この馬鹿野郎!」

昼日中に現れて主人を待っていた規格外の威容の魔物と、怖れることもなく押し問答をしている女主を、見送りに出た屋敷の者は顔を伏せ、それを見ないようにしながら顔を青くさせている。

あんな巨躯を誇る、狂暴な気配をにじませた冷酷な化け物と対等に渡り合う我が主人とはいったい・・・・・・屋敷の者たちは自分が仕える主人を、皆、畏怖するのだ。

「何やら最近お前は、こそこそと隠れて外出したがるからな。一体全体、何をそんなに秘密にしたいことがあるのやら、じっくり訊いてみたいものだ、我が主。そうだ、では、私は屋敷で待っているから、今晩辺り、ゆっくりとその外出先の―――」

「ええいっ、わかった!!今日の護衛はお前だ、この吸血鬼!!」従ってきた護衛を下がらせると、女はさっさと車に乗り込んだ。

―― 「その外出先とやらを聴かせてもらおう。お前は強情だからな。口で言っても分からない時は、褥で躰に訊いた方が早いだろう。お前は、存外に躰の方が正直だからな」...... くらいは、平気で言いかねん男だ、このバカは!

この男がその言葉の先をどういう風に続けるのか分かりきっている女は、屋敷の者が居る前で冗談でもそんなことを口に出されてはたまらないと、早々に車に乗り込んだ。

こんな化け物を従える主人なのだ。その下僕とねんごろな関係にあっても何ら不思議はなかろう―― と屋敷の者から思われたら敵わんと、女主は眉間にシワを刻み腕を組んで怒った顔のまま車の背凭れにふんぞり返る。そして、眼鏡の奥の瞳を憤怒の激情に輝かせて、男を射殺すような青の視線で睨んだ。

そんな怒り心頭の、女の硬質なブルーの瞳を見ながら、男はニィっと妖しくて綺麗な笑いを作る。

普段の女指揮官の姿に比べると、その日は大分色気を増した、胸元のなめらかな肌が露出するインテグラの姿を、サングラスの奥の目を弧にして眺めた男は、その隣に自分もゆったりと背を預けると茶会へのお供をするのだった。


茶も軽食も、そして菓子も、とても口に合うとインテグラは珍しく笑って、持てなしてくれたその家の当主夫婦に礼を述べた。

仕事場で会う時は、どこかに冬のような冷たい薄暗さがある得体の知れないものを隠す油断ならない人物だと評価していた男だったが、家庭では存外に善い父親振りを発揮していて、その落差にインテグラは一瞬目を見張った。だが本当は、男と云うのはこのような生きものなのだろう―― と、敵地に乗り込むようにいからせていた肩から、ヘルシングの女は力を抜いた。

仕事と家庭とに境界を作り、そのボーダーを越えるときには持っている顔を切り替えするのがきっと普通なのだろう。自分のように外でも屋敷でも機関でも、全て同じ顔を持つというのは、やはりまともではないのかもしれない・・・・・・と、インテグラは自嘲の笑みを密かに浮かべる。

自分は何処にいても気が抜けないのだ。何せ外でも内でも、常に化け物と対峙しなければならないのだから。今は自分の影か、あるいはどこか居心地のいい場所を探して隠れているであろう、秀麗な顔をした残忍無比な男の事を思い出したインテグラはちょっとだけため息をついた。

婦人の手作りと云うスコーンに、庭で取れた果実を使ったジャムなど、決して華美ではないのに心が篭った持てなしに満足したらしいヘルシングの女当主を見ていたその家の娘は、自分が手入れもしている庭を是非案内したいと、頃合を見て申し出た。

インテグラはその申し出に、角が立たないよう、それなりに付き合ってやるかと、彼女に手を引かれて典型的なイングリッシュガーデンへと、散策の足を踏み出したのだった。

ランブリング・レクターの愛らしい白い花が王冠のようにその屋根を覆う東屋まで来たインテグラは、ちょっと辟易するくらいに馴れ馴れしい態度のその娘に引かれていた手をようやく離してもらうと、内心ほっとしてそのベンチに腰を下ろした。

その娘は典型的なアングロサクソンの容貌にインテグラと同じ青い瞳をしていたが、その顔つきも体つきも、女指揮官とは違う、まろみを帯びた姿かたちをしていた。

少し小悪魔的な可愛らしい目元が、綺麗に整った顔にアクセントを与え、人を惹き込むような魅力があるその表情は、言うことを聴いてあげたくなるような、愛らしいのに艶かしさが含まれたものだった。

父に貴女のことを詳しく聴くまで、ずっと男の人だと思ってました―― と、その娘は笑いながらそう言った。

容貌も凛々しくてあられるし、この前タイヤを取り替えてくださった手際も見事でしたし。それに冷酷ではないけど人を寄せ付けない鋭利な雰囲気も持っていらっしゃる。そしてレディではなくサーの称号をお持ちなんでしょう? ヘルシング卿と呼ばれていて騎士でいらっしゃるとも言うし、父とは仕事でお会いしているという話しでしたから、実は昨日まで男性だと思ってたんですよ。

そんな風に少し照れたように言って笑う女は、確かに可愛らしかった。

「では、私が男でなくって残念だったとか?」

「いえ、そんなことは。正直、かえって喜ばしいです。ヘルシング卿が女性でよかったわ」そう言って笑った女の顔には、ちょっと妖しさを含んだ微笑が浮かぶ。

その笑みに『よかったのか、女で?』と、頭の隅で考えながら、インテグラは彼女の顔をまじまじと見つめた。

こんな清純さと妖しさの両方持ち合わせる女は、きっと従僕の好物なんだろうなーー と、その容貌を見ながらインテグラは無造作に懐の葉巻に手を伸ばした。だが、さすがに手入れされた他人の屋敷で、それも妙齢の女性を前に吸うのは不味かろうと手を止める。

だが、相手の娘は「葉巻でしたらどうぞお構いなく。ついでのお願いで申し訳ないのですが――」と、インテグラの葉巻を自分も吸いたいと強請ったのだった。


「こちらはセントオーバンスにある英国王立バラ協会の庭を模してるんですね」

「そうっ!お分かりになる? あそこのランブリング・レクターが、私、大好きなの!」

妙齢の女二人煙草をふかしながら、手入れされた庭園の話をしていたが、さすがにそろそろ自分の屋敷に帰りたいと、インテグラが葉巻を携帯していた灰皿に入れながらベンチから立ち上がると、その手を女が引っ張った。

そして、何事かと訝しく振り向いて屈んだインテグラの唇に、自分の熱いほどの熱を持った薄い唇をいきなり押し当てるのだった。

「――― んんっーーーうっ?!」

突然の暴挙に、彼女の身体を押し飛ばしたインテグラの顔を見て、キスをした張本人は首を傾げた。

「同性からのキスはお嫌い? 慣れていらっしゃるかと思ったんだけど」

普段は鋼鉄のような冷たい凍った顔をしている女が、あまりのことに頬を赤らめて仰天している様子を見て、彼女は楽しげに笑い声を上げた。

「普段の冷たいお顔の影には、随分と初心なお心を持っていらっしゃるのね」

その女指揮官のギャップを愉しむように笑いながら立ち上がった可愛らしい女は、葉巻をレンガの床に落として、つま先でもみ消す。そしてさらに接吻しようとしたが、インテグラは眦を吊り上げてその女の身体を押しのけた。

私の事はお嫌いですか、ヘルシング卿?」すると、目尻に涙を溜めてうるうるとした顔を見せた娘に、またもやインテグラは混乱した。

女だてらに指揮官だと?!生意気だ!傲慢だ!と、自分を見下して雌犬扱いしようとする男共にはいくらでも冷徹になれるのだが、こんな風に涙を浮かべて自分をすがるように見つめる可愛らしい娘をどう扱っていいのか、インテグラは知らない。

「・・・・・・いや、嫌いだとか好きだとか、そう言う次元ではなくて。私は同性と接吻するような趣味は――」

そう言ったインテグラに「好きでも嫌いでもなければ試してご覧になるものです。私は貴女がとても気に入ったの! 大好きです! 女同士の方が色々と愉しいも のですよ!!」などと、インテグラの理解の範疇を超える単語を次々と並べて、うるうるとした瞳で詰め寄る女性に、どうしたらいいものか―― と、さすがの鋼鉄の女も、その冷たい面を崩して困惑顔を作る。

「いや、だから・・・・・・私にはそう言う趣味はないから!」何とかそう断ったが、いつものように相手を殴ったり蹴ったりする訳にも行かず、かと言って、キツイ言葉で傷つけるのも可愛そうだしで。

そんな風に躊躇している内、自分より幾分低い身長の女性から、腰や肩に腕を回されてがんじがらめに捕らえられ、蜘蛛の巣にかかった蝶のように為すすべがなくなったインテグラは、頬に寄せられた女の唇を避けようと抗っていると、その背後からいきなり、低い無表情な冷たい声音が響いた。

「我が主から手を離せ、女」

その声は血が通っていない冷たいもので、全く感情を含ませないものだったが、その地を這うような低い声は、色がない分、鋭利な恫喝を含んでいて、その声を聞いた女性は身体を強張らせた。

「離さんとぶち殺すぞ、人間(ヒューマン)」

抑揚のない低い声は感情を含んでいないのに明らかに怒気は孕んでいて、娘は強張った手を震えさせながらインテグラから手を離した。

彼女からのか弱いのに執拗な束縛から逃れたインテグラは、あからさまにほっとした顔を作って振り返る。

普段なら、呼びもしないのに出てきた化け物は罵倒とお仕置きの対象なのだが、今日に限っては上出来だとインテグラは振り返った顔に『でかした従僕、お前ってたまには使えるヤツだ!』と、珍しい賛辞の色を浮かべた。

だが、こんな異形の化け物を夕暮れの陽の中に立たせて、人間にその魔性の姿を見せ付けるのは不味いだろうと、女主は表情を引き締めた。

「あとは、いいから戻れ従僕。一般人相手にその姿を晒すな、アーカード」女主がいつもに比べ穏やかで優しげな口調でそう告げた。

だが、その巨躯を誇る魔がしい化け物は、インテグラの姿を通り越し、その後ろを見ている。そして、口の端にニイッと皮肉な笑いを作るのだった。

緋色の帽子にマチネ色のサングラスをしていても、その秀麗な顔に浮かぶ冷たい厭な笑いは寒気がするようなそんなものだった。

そんな従僕の姿を見て、インテグラも体の向きを変える。

すると娘は怯えているらしいかったが、気丈にも青ざめた顔に鋭く細めた目を作り、怯えた自分の身体を抱くようにして、異形の化け物を渾身の力で睨もうとしているのだった。

「誰なの? 私の・・・・・・この屋敷に、どうやって入ったの?お、お前は、ヘルシング家の従者なの?」語尾は震えていたが、女性は突如現れたその化け物を誰何する。

―― 勇猛かつ冷静と言われる男の血を引くだけのことはある。さすがブリテンでも名門の血筋だ。これは珍しい程、勇敢な女だな

インテグラも、姿に見合わぬ剛毅なその娘に内心賛辞を送ったが、従僕がそれを面白がっているらしい様子に気付くと、チッと小さく舌打ちした。

「私か? 私はこの女から飼われる犬だ。そして、この女は私の主人だ」男がさらに口の端を上げて、面白そうに応える。

「お前が犬?! 飼われている犬ですって?! ヘルシング卿が主人だというの?」

男はさらに口の両端を吊り上げると、頬に皮肉っぽいシワを刻んで頷いた。だがその笑い顔は、恐怖を駆り立てるものでしかなかったが。

「な、・・・・・・何故、ヘルシング卿の下僕(しもべ)のお前が、邪魔立てをするの!」娘は顔を青ざめさせて吐いたが、腹を立てているようだった。

恐れを抱だか(いだか)されて、戦慄くほど恐怖させられている事に加え、せっかく落とそうと思っていた意中の相手を鼻先で掠め取られたことに、怒っているらしい。

「お前では、インテグラの相手は務まらんさ。何せこの女は、この私を飼い犬扱いするような剛の者なのでな。だが、お前も犬に成り下がる気概があれば、多少の話し相手くらいしてもらえるだろう。いかがかね、お嬢さん。すべての矜持と自尊心を捨てて、この女の飼い犬に成り下がれるかね」

―― おいっ!!何だその口ぶりは?!それじゃ私がまるでーーーっ......

変な誤解しか与えられそうにもない従僕のとんでもない台詞を聴いて、眉を吊り上げたインテグラだったが、そんな自分を、恐怖と湿度のある執拗な目でじっと見つめている娘に気が付く。

自分は、見かけよりはずっと執拗で剛毅な資質を持った女性に関心を寄せられたらしいーー そう悟ったインテグラは、一瞬躊躇はしたが顔をいつもの氷のような面に変えた。

相手に腕力と言葉の暴力も振るわずに諦めさせるには、確かに今しかない。

また泣かれてすがられても困ると思ったインテグラは、声も北の湖面を渡る風のような冷たいものに変えると、眼鏡の奥の目を細めて娘に対峙した。

「そうだ。この男は私に忠実な飼い犬であり、私が屋敷に囲う奴隷だ。私が欲しいのは、奴隷であり、飼い犬だけだ」そう冷たく言い切った女指揮官の冷酷な顔を、穴が開くほど見つめていた女性は、ガクッと項垂れた。

「―― 私、その手のSMプレイって無理かも。辞退させていただくわ、ヘルシング卿。私に飼い犬は無理」

その言葉を聴いて低い声でクツクツと愉しげに笑う従僕を振り向きざま拳で張り倒し、足蹴りを喰らわせたインテグラを見た娘は、この女指揮官を真性のサディストだと心の中で思うのだった。


その日、陽が暮れてから屋敷に帰り、脱ぎ散らかした服もそのままに、蹴って飛ばして脱いだ靴を部屋の隅に転がして自暴自棄になって私室のソファに突っ伏した女は、悔し涙をクッションに零した。

剛毅だ、勇猛だ、男勝りだといわれるのは仕方が無い。

本当は、そんな事を言われるのは不本意だが、化け物を飼いならして任務遂行するためなら鋼鉄の女にも、ミス悪役面にもなる覚悟はある。だが、狂暴で巨躯を誇る男を飼い犬として従える、マニアックな性癖のある女として見られるのは、正直我慢ならかった。

あれしか方法はなかったのだろうか?もっと最良の方法はなかったのだろうか?―― と、実は繊細な部分も持ち合わせている女指揮官は、自分をエントランスで見送った時の、彼女の冷たい侮蔑の瞳を思い出しながら悔恨の涙を零す。

そんな、獣のような唸り声を上げて悔しがっている妙齢の女主をからかいに、その晩も彼女の部屋の影から巨大な体躯を立ち上がらせた女主が大好きでたまらない飼い犬は、その顔面に容赦なくクッションやら靴やら、そして法儀礼済みの銃弾をインテグラから食らったのだが、その白皙に浮かぶのはとても嬉しそうな魔物の妖艶な笑いなのであった。


09.5.22のブログを若干修正、09.5.29

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