※ 歴史を知り尽くしている吸血鬼


女主の絹糸のような長い髪の一部と前髪を一緒に緩やかに結わえ上げた女吸血鬼は、その持ち上げた部分をピンやバレッタで、ふくらみが潰れないように器用に留めた。

いつもはトゥラザースとジャケットに、飾り気の無いシャツ姿。その姿を飾るのは、リボンタイと十字架のタイ留めだけという、装飾には一切無縁な女局長。だが今日は、肌の色を引き立てる淡いピンクがかった柔らかいオフホワイトの色合いの、サテンで出来た華やかな膝丈のフレアスカートを身に着けていた。ジャケットは立ち襟だが、スカートと同じ素材の胸元が大きく開いたもので、七分の袖は先がフレア状に優雅なラインを描き出している。そして深く切り込んだ襟元には、その艶やかな蜂蜜色した谷間に6カラットのダイヤを中心に据えたネックレスが上品に輝いていた。

髪の立ち上がりとふくらみをチェックしたドラキュリーナは、満足げに女上司の整った顔を見ると、その耳にダイヤのドロップタイプのイヤリングをつけて、手首にも多少控え目な細さのパヴェの輝きが美しいダイヤのブレスレットをはめた。

「インテグラさま、こんな感じでどうでしょう?」どうでしょう?とは聴いてはみたが、フォーマル感がない気軽な装いの中にもラグジュアリー感を湛えるその主人の姿に、セラス自身がいたく満足していた。なにせ目の前の女上司は、元々貴族的な品格の顔立ちと風格を持ち合わせているのだ。

インテグラが、眼鏡をフレームが目立たない小さめなものに変えて鏡を覗き込む。そこには、これほど気高さを醸した魅惑の肌を持つ女性は他にはいるまい! とセラスがその仕上がりを自画自賛する、たおやかで強い芯を持ったイングランド婦人が出来上がっていた。

―― 完璧(インテグラル)!!さすが、私のご主人様だわっ!!

実はこの目の前の女主は、自分のマスターのマスターという位置づけなのだが、もうそんな二段階マスター論は吹っ飛んで、目の前のヘルシング当主を『私のご主人様』と思い込んでいる女吸血鬼。彼女はぎゅぎゅっと拳を握り締め、その姿を心の中で言祝いだ。

「まぁ、いいんじゃないのかなぁ?あまりお堅い格好じゃダメらしいし」しかし当の本人は、そんな稀に見る高潔でたおやかな女性らしい自分の外見には全く興味がないらしい。

「う~~ん。でも、こんな髪型でいいのか、セラス? これって本当は襟足もあげて、後頭部でまとめるのが正式なんだろ?」

「いいんですよ、インテグラさま。それじゃ正式過ぎます。パーティーと言っても、そう言う席じゃないって、ウォルターさんが言ってましたし。あんまりカチッと結い上げるとかえって浮くと思います」そう言った女吸血鬼はレッドカーペットの上で微笑むカメラ目線の女優が載っている雑誌を見せて、その髪型を指差した。

「目指したのはこんな感じで緩やかに持ち上げたキメすぎないふんわりしたヘアスタイルなんです。だから、これでいいんです」

そう言われた女当主は「ふ~~ん」と気の無い返事をして立ち上がると、「ありがとうセラス、手間を掛けさせたな。しかしお前は何をやらせても器用だなぁ。頼りになる部下がいて、良かったよ」と、彼女を労った。

「どういたしまして、局長。またお声をかけて下さい」とそう返事をしたセラスだったが、その心の中では『そんなっ! 後頭部でまとめて襟足を晒すだなんてっ! 私じゃ無理ですっ、苦行です!』とつぶやいた。

吸血鬼を耽溺させるような鼓動を放つ人の女の、白鳥のように気高い首筋を見たら......それを考えただけで、女吸血鬼は「はあぁぁ~」と嘆息する。何せ自分は、血を吸う夜族なのだ。何が切欠で、自分の理性を夜族の本性が凌駕するのか、今のところ予想できない。君子危うきに近寄らず。それが現在のセラスの危機管理の基本だった。

そして、それ以上に危険なのは、この女主の飼う「犬」

晒された首を見たら、辛抱し切れずに襲い掛かって押し倒し、その魅惑的な首筋に涎をたらしながら鼻っ面を擦りつけるに違いない。

その「犬」が自分のマスターでもある女吸血鬼は、ハァと溜息をついて天上を仰ぐのだった。

割と気軽な席に出なければならなくなった主人のために、屋敷のメイドたちはそのカジュアル感があるのに品があるヘルシング家の当主が着るに相応しい服を用意はしたが、いざ髪型となったとき、皆一斉に頭を抱えることになった。

ヘルシング家の当主だったら自宅に美容師を呼べば済む話なのだが、この女はその手の無駄が嫌なのだ。美容師を呼んで彼女の部屋のパウダールームでヘアメイクをしてもらうなど、そんな気持ちは毛頭無いし、勇猛果敢で服飾には全く興味が無い剛毅な女なのである。彼女は気が向いた時、あるいは任務の空いたわずかの時間にメイドを呼び出して「適当に結ってくれ」と言うのが常なのだ。

ソワレや格式が高いお屋敷からのお呼ばれの茶会に合うヘアスタイルを結い上げる技量を持ち合わせた歳経たメイド頭だったが、如何せん彼女は若い者が多く集まる気軽な場に似合う「品のある今風の髪型」とは、どうすればいいのか頭を悩ませた。

では、この屋敷に居る最年少の女性に意見を聴いてみましょう―― と、忠実な執事から、白羽の矢を立てられたのが、女吸血鬼なのだった。

立ち上がった女主は、「歩きにくいな、コレ」と、文句を言いつつも、やはり貴族のご令嬢らしく、銀色を含んだその美しい10センチヒールのバックバンドのサテンの靴を見事に履きこなしていた。

撫でたい誘惑に駆られる艶やかな輝きを放つ素足は、夕暮れの光に黄金色に輝き、引き締まった足首と優雅なラインを描く鍛えられたふくらはぎは、芸術品のように美しかった。

やはり、やれば出来るのだ、この女性(ひと)は。

普段は鉄火と硝煙に囲まれた血飛沫が舞う戦場で、兵たちの道標のように堂々と果敢に勇ましく指揮を執るのだが、こう云う姿をさせれば、それなりにちゃんとこなすのだ。

やっぱり貴族のお嬢様なのだわ~と、セラスはその姿に目を細め、悦にいって眺めていた。

襟元にリンクスの腹の極上の毛をあしらった黒のカシミアのコートを袖を通さず肩に羽織り、さて大事な護身用の小型の銃が入ったクラッチバックはどこだっけ?と、インテグラが部屋を探しはじめた時だった。

―― 起きたッ!!来る。間違いなく、ここに来る!!

セラスはその気配を拾うと、悦にいって笑っていた顔を強張らせ、クラッチバックを探すのを慌てて手伝いはじめる。

状況的にはどう考えても、早く会場に向かわせたかった。どうしたって、いつもと違う姿をした主人を見たら、あの偉大な吸血鬼は、何かしらの揉め事を起こすのは必須。

だが、しかし・・・・・・魅力的な蜂蜜色の素肌を引き立てる衣装と髪型がとても似合う美しい女主人を「綺麗でしょう?似合いますでしょう?私がインテグラさまの着替えのお手伝いとヘアメイクをしたんですよ、マスター!」と、自慢してみたいのも事実だった。しかし、そんな自慢をしたら最後、冷酷な顔で冷たく蔑む視線で見つめられた後、逆らえないのに絶対にやりたくない地下の害虫駆除を「命令だ」と言ってやらされるに決まってるのだ。

そんな使い魔はいらないといっているのに、あのマスターは「お前に必要だと思って集めたんだ。飼いならしてみろ」と地下に気味の悪い害虫としか呼びようが無いものを、溜め込んでいるのだ。そして、あの偉大な吸血鬼は、存外に嫉妬深い。特に自分の大切な主に関しては。

『そんな自慢をしたら墓穴を掘るだけだわ!』そう考えたセラスは、必死で女主人のバックを探すのを手伝った。

そして、ソファの背もたれと座面のクッションの僅かな隙間に挟まっていた、艶やかなクロコダイルの見事な斑が浮き出たクラッチバックを見つけると、それを急いで女主人に渡す。

クラッチバックを受け取った女主は、それに銃と補充用の弾丸が入っているのを確かめ「では行って来る。留守を頼むぞ」とセラスに声をかけた時だった。

インテグラが話し終えるのと、私室の扉から偉容を誇る緋色の吸血鬼が抜け出てくるのが、ほぼ同時となった。

―― 遅かったかーーッ!!

『何が「遅かった」というのだ、この半人前の吸血鬼が』空気も響かせていないのに、圧倒するような質量を伴って、婦警の頭の中で陰々と男の低い声が響く。

自分の配下の女吸血鬼に、あからさまに脅しをかけるような圧力で脳内に声を響かせ、サングラスを外して発光するような強い赤の視線でセラスを見たアーカードに、セラスは「ひぃっ!!」と短い悲鳴を上げて跳び退いた。

「いきなりノックもなく、無礼に私の部屋に侵入した挙句、配下の女吸血鬼を脅すとは何事だ、この馬鹿犬がッ!!セラスをいじめると許さんぞ?!」

装いを変えても相変わらず剛毅な指揮者は、不躾な下僕を見上げると恐れもなくその巨躯の男を叱咤した。しかしこの吸血鬼は、その主の小言や叱咤が聴きたくて「人間の常識に化け物を当てはめるなんぞ、馬鹿げている」と言いつつも、いつも無礼で不躾な様子で主人へソワレの挨拶をしにやってくることを、セラスは知っていた。

―― 女主人様の小言や叱咤、時には鉄拳が欲しいなんて。マスター歪んでますよ

更にその先を考えそうになったセラスだったが、そんなものがうっかり漏れたら大変だと、何とか平常心を装う。

「こんばんは、インテグラ。今宵はいい夜になりそうな匂いがする」

主の小言をことごとく無視した男は、夜族しか作りえない美しい人外の笑みを浮かべて、そうインテグラに挨拶をした。そして案の定、自分を斬りつけるような鋭い青の目線で睨んでいる女の姿を、珍しいものでも見るようにまじまじと見つめるのだった。

「珍しい姿だな、インテグラ。我が主は、これから何処かへご出陣か?」男が皮肉たっぷりに口の端にシワを寄せ、そうインテグラに問う。

セラスは『あぁ、何でそうインテグラさまに絡むんだろ、マスターは』と思いつつも、われ関せずと数歩下がって影のように大人しく、静かにすることに徹するのだった。

「こんな動きにくい服を着せられてるのに、どこかに出陣するように見えるのか、この耄碌吸血鬼。私はこれから不本意ながらもパーティーに出なくちゃいかんのだ。戦になんぞ、こんな姿で行くものか、馬鹿が」実際、出陣の方がどれだけましかと、女は眉根を寄せる。

動きにくい服を着せられ、窮屈な靴を履き、飾り立てられて不愉快極まりない上に、行きたくないパーティーに当主の面目を保つためどうしても出席しなくてはならない状況にイライラしていた女は、眉間にシワを作って従僕を不機嫌に睨みあげた。

「飾り立てて夜会に出陣となれば、婿の相手を探して男を狩りに行く訳か。馬子にも衣装とは言うが、そこまでして普段の姿を覆い隠して男を漁らんと相手が見つからんとは、嘆かわしい限りだなヘルシング卿。あまりの不甲斐なさに、アーサーがあの世で泣いているぞ」

いにしえ人(びと)の感覚をもった歳経た吸血鬼からすれば、そんなに短いスカートで夜会に出て、男どもに素足を晒すとは何事だ!?としか思えなかった。

胸元が深く切れ込んだ衣装を着て、芸術品のようなふくらはぎを晒し、艶やかな蜂蜜色の肌を大勢の男の目に見せ付けるような主の行為は、ドラクルの名を秘めた化け物が持つ逆鱗を刺激するものでしかない。

もともとこの化け物は、女主人への占有意識と執着心が強い。そこを刺激された不快さを、化け物は捩れた(ねじれた)表現でしか言葉に出来ないのだ。

しかし女にとって、それは、喧嘩を売られたようにしか思えない言動。

この女には、男心の機微を察する能力は全くなかったし、そもそもこの分野には、超絶的に鈍感なのだ。そして、売られた喧嘩は絶対に買う女なのだ、この指揮者は。

「主を馬鹿にするのも大概にしろよ、このボケ吸血鬼。私は当主の面目を保つ努力をしただけだ。誰が婿の来てがないだと? 誰が男漁りに行くだと?! 愚弄もいい加減にしろよ、馬鹿ものめ! 私にだって縁談くらいはある。実際、婚姻契約を前提とした付き合いをしたいと申し込んでくれた殿方もいる。自分がいつも血と女に飢えてるからって、主人まで同列に扱ってもらっては困るぞ、我が従僕」

女はブルーの目を細くして口に不敵な笑いを浮かべ見下したように鼻を鳴らすと、その鋭い武器のようなヒールの踵で男の足の甲をグサリと踏んだ。

「痛いぞ、お嬢さん。男に乱暴を働くとは、縁談があっても破談は間違いないな、ヘルシング卿」男はさすがに甲に食い込んだヒールに、片眉を上げて抗議する。しかし、口の端には皮肉気に笑ったシワが刻まれていたが。

「痛さなんか慣れっこで、逆に気持ちがいいくらいだろう? 私もお前以外に、こんなことはしないぞ!そして、今までの縁談だって破談になってる訳じゃないんだ! あれは私が辞退するか断ってるんだ、馬鹿にするな吸血鬼」

「・・・・・・断っていると?」

「そう、断っている」

「―― 何故?」

「・・・・・・まあ、色々と理由があるがな。気が向かんだけだとも言える」

まさか婿になる人間に『実は私、地下に吸血鬼を飼ってるんです。いえ、ちょっと凶暴な犬がいる程度に思ってくれればいいですから』と、言うわけにもいかない。この化け物の飼い主であることが、自分が一番縁遠い理由だとは、負けを認めるようでやはり言いたくなかったのだ。

その上『家』と『機関』を存続させるためだけに、子孫を残すことが役割と化している現状に、不満と疑問があったのも確かだ。しかしそんな繊細な内実を、この男に教えてやるのはインテグラには業腹なことであった。

そんな僅かな躊躇を、一瞬だが瞳の中に浮かべた女を、下僕はどう思ったのだろう。

「ふむ。我が主は、気が向かんのか」そう言ってアーカードは肩をすくめると、『全くこのお転婆は......』と言う皮肉な目をして、主のためにドアの前から身を避けた。

「そうだ!こんな言い争いをしている場合じゃない。早く行かなきゃ!!」

置かれている現状を思い出した女は、男を一瞬だけキッと斬るような鋭い視線で睨むと、ドアノブに手をかけた。すると......

「なぁ、インテグラ。その髪型は夜会には向かんのではないか? 残りの髪も、キチンと結い上げるものではないのか?」微妙に訝しげな目線を女主の頭に送っていた男は、長い歴史が培った吸血鬼の審美眼を発揮してそう忠告する。

自分の女を男どもに見せびらかすのは勿体無いが、かと言って変な姿で人前に出すのも癪にさわる―― アーカードのそんな複雑な化け物の内心は、しかし外見からは全く窺い知れなかったが。そしてその言葉を聴いた女主人は、一瞬ちょっと困ったような表情で従僕を見てから、その視線をセラスに注ぐ。

従僕もその主の眼差しを追って、女吸血鬼を見る。

青と赤の視線で見つめられたセラスは、まるでそこに居なかったことになっていた彫像のような姿から突然身動きして、慌てて口を開いた。

「いいんですよ、マスター。今日のインテグラさまが出席なさるパーティーは、若い方が主流のくだけた集まりなんです。これは『ポンパドール』って言うヘアスタイルを今風にアレンジしたものなんですよ。正式には全部結い上げるそうですが、今回はこれでいいんです」下僕である女吸血鬼のそんな説明を聴いた男は、顔を冷ややかなものにして、自分の女主に向き直る。

そんなアーカードを見上げて「だ、そうだ。今時の若い娘が言うのだから、これでいいんだろう。何か異議でもあるのか我が従僕?」と問うたインテグラだったが......

説明を聞いた男の表情(かお)は、感情が消えた冷酷なものに変わっていた。

この男が、面(おもて)を無表情かつ冷酷なものに変えたときには、何かしら腹に一物あるはずだと、女は小首を傾げてアーカードを見つめる。

確かに、この男にはそれなりの審美眼があるのだ。意見を聴いても損にはなるまい―― そう女主は判断したらかった。

「『ポンパドゥール侯爵夫人』の名を持つヘアスタイルとは、それはお前が誰かの公妾であるという証なのか?」

あまりにも歳の差がありすぎる男の珍妙な問いに、インテグラはさらに首を傾げて頭を捻る。

―― ポンパドゥール侯爵夫人?公妾?えっ、それって公け(おおやけ)の妾ってことか?

首を傾げたまま、黙って自分を見上げるだけの女に業を煮やした男は、さらに言葉まで凍てつく冷たさに変えて女主を詰問した。

「あの女はルイ15世の愛妾ではあったが、男との床で寝乱れたようなそんな髪形は、少なくともしていなかったぞ。妾ではあったが公妾という地位に見合った才気と教養と度胸と外交戦術を持った稀有な女だった。あの女同様、才気と教養と度胸と外交戦術を持っている私の主であるお前を、公妾としている男はいったい何処の誰だ? あの女の名を持つ髪形をしているという事は、何処ぞの国王か国王に準じる人間の妾ということなのか?」

「―― あのなぁ、アーカード。お前の発想って時代がズレ過ぎてて、私にもわかりずらいんだが」審美眼はあっても、女の服飾やヘアメイクには全く関心が無い男に、女主は頭を抱える。

「あのな『ポンパドール』はヘアスタイルの一般呼称なんだ、アーカード。敏腕でベッドの上でフランス政治を牛耳った、あの女傑とイコールじゃないんだ。こんな髪型をしている女は、ハリウッドにもこのロンドンにも大勢居る。それはただのファッションなんだ。決して国家権力を持つ男の妾を表すヘアスタイルじゃない。わかったか、我が従僕?」女主はガクッと肩を落としつつも、そう丁寧に従僕に説明をしてやる。

元々、知らぬもの、教えを請うものには、それを卑しめ笑うことなく説明してやる資質を持った指揮官なのだ。短気ではあるが、余計なことで怨まれないための知恵と、特務機関の長として人を率いるための力量は持っている女なのだ。

「ただのファッションなのか? エリゼ宮を作らせたあの女の地位とイコールではないと?」

「そうだ。だから『私の時代が来た』と言って扇で口元を隠しながら、獲得した権力に鮮やか笑みを浮かべることは断じて無い」

「その前髪と頭頂部だけを大きく膨らませて結ぶのが今風だと? それをポンパドゥール侯爵夫人と?」

「いや、だから侯爵夫人はいらないんだって。それに『パンパドール』だ。この髪型が今は流行ってるんだそうだ。だから、これでOKなんだ。わかったか、従僕?」

「―― 認識した、我が主」

では、縁談を『気が向かん』と言って断っているのは、誰かの『妾』になっているためではないのだな―― と、主と全く次元がかけ離れた世界に住む吸血鬼は思う。

そして、無表情なまま赤い目を煌々とさせてうなずいた男を見ながら、女は考えた。

この男は、何やら悪さをしに、昔大陸の西の端までやってきたことがあるのだろう。

きっとプロイセンでも引っかき回して、周りの国々に戦乱の火種を撒き散らそうとしたに違いない。そしてその時に、あの女傑と逢っているに違いない。

元々、才気ある美貌を誇る女には目が無い男だ。きっとーー 間違いなく逢いに行っているだろう。

「お前、実はあの女に会ったことがある?」その女主の問に、男は両口の端をニィっと吊り上げ、牙を剥いて笑った。

「さあな、どうとでも、我が主。特筆すべき外交手腕を持つ女は何時の世でも希少だが、あの時は外交戦術に長けた権力を持った女が、珍しく三人も揃った時代だったからな。記憶には残っているぞ」

「三枚のペチコート作戦?」

「そうだ。そんな名前だったな」男は口の端をさらに吊り上げ乱杭歯を覗かせて、皮肉そのものの吸血鬼の笑いを浮かべた。

きっとどうせ炊きつけようとしたプロイセンが砲火を他国に浴びせる前に、ポンパドゥール夫人と女帝エリザヴェータと女帝マリア・テレジアから、反プロイセン包囲網を構築されて、こいつは愉しみにしていた戦火拡大を断念せざるを得なかったのだろう。人の心に戦火の種を蒔いて育てる、この戦争狂な血を吸う悪鬼めッ!!

―― ふんっ!こんな女誑しの化け物なんぞ、女傑たちから踏みつけられて、熨(の)されてしまえばいいんだ!!

嫌な笑いを浮かべた吸血鬼の顔を冷たく一瞥した女主人は、「では行ってくる」と言って、部屋から出ようとした。するとアーカードが、背を向けた女主人に向かって、低い錆を含んだ声で話しかけたのだった。

「だが、同じ才気と教養と度胸と外交戦術があっても、お前の方があの公妾よりは、格段に『女』として優秀だなインテグラ。あの女は30歳にして絶倫のルイ15世の相手が出来ずにベッドを去るが、我が主であれば化け物の私と、生涯、床を共に出来るほどの有り余るたいりょ――――ツッ!」

一体何を言い出すのかと眦を吊り上げた女は、素早くクラッチバックから銃を抜き出すと普段の訓練の成果である手際のよさで、その弾を下品な吸血鬼の口元めがけて全弾発射する。

そうやって吸血鬼の口を乱暴な方法で塞ぐと、何事もなかったように身を翻した。

背中越しに、「後は頼んだぞ、セラス」と声を掛けると、インテグラはその素晴らしい脚線美を見せ付けて、足早に出かけていくのだった。


後を頼まれた女吸血鬼は、丁寧に礼をとって女主人を見送った。

そして顔を復元しているマスターを見ながら、『これって、並外れた痴話喧嘩って言うんじゃないんですかねぇ?!』と、眉を寄せて考えるのだった。



(2009.1.21のブログを若干修正) 2009.2.27

I BUILT MY SITE FOR FREE USING