彼女がいつもの定期メンテナンスを終え、屋敷に帰る道中、その車中で腕組しながら考えていた。

―― 自分は物心ついたころから、定期的に歯のメンテナンスをしている。部隊のものだって定期的に健康診断をして歯のメンテナンスもやっている。しかし、あいつはどうなんだ??

歯並びも歯の輝きも、その身分に合った美しさを保っている当主の少女は、自分がメンテナンスを受けている最中からずっとそればかりを気に掛けていた。

車の中から赤とオレンジ色の光線に染められていく、彼誰時(かわたれどき)の鮮やかな雲を見つめながら、持ち前の厚い責任感で自分の従える従僕の健康を、幼い主は気にかけた。

―― 屋敷に帰ったら、ウォルターに確認してみよう。

そう思いながら、屋敷に帰還したうら若き当主だった。


執務室に入り、席に腰を下ろした少女の前には、昨日の出動に関する部隊からの報告書が出来上がっていた。その書類に目を通そうと、外出用の眼鏡から執務用の眼鏡にかけかえ、書類をめくろうとした時だった。

彼女の忠実な執事がお茶の道具を抱えて、室内に入ってくる。

そこで彼女は、先程思った疑問を老執事に聴いてみようと声をかけた。

「ウォルター、お前にちょっと聴きたいことがあるんだが」

「何でございましょう、お嬢さま」

当主の座についてまだ半年ばかりの少女の真剣な眼差しを受け止め、老執事は彼女の執務机に歩み寄る。

「あの吸血鬼のことなのだけど......」彼女がそう言った時だった。

「なんだ、我が主。私に聴きたい事があるんだったら、直接聴いたらいいだろう」

あの低い魔物の男の声がした。

少女は眉を寄せ、似合わぬ眉間のシワを作って声のほうを振り向く。この男は、ノックをしたためしがない。なのでもちろんドアも使わない。いつも床や壁や、果てや天上からぞるぞるとその姿を表すのだ。

「おはよう、我が主」

この男はいつも唇に皮肉な笑いを浮かべて自分にソワレの挨拶をする。

最初の頃は不愉快極まりなかったが、これはこう云うものなのだと最近納得しつつはある。だがしかし、それでもノックもしない、ドアも使わないこの化け物の無礼さ加減に、毎日小言を言う羽目になるのだ。

「おはよう、我が従僕。今日も相変わらず、ノックもしないし、ドアも使わんのだな。お前は何度言ったら普通に部屋に入ってこられるようになるんだ」

小娘といっていい主なのだが、従僕はこの主をからかうのをひどく楽しみにしている。

小言を言わせては楽しみ、からかっては真剣に怒る反応をかなり楽しんでいることを、この歳若い主はまだ知らない。

ただニヤニヤと笑い自分を見ている従僕にむっとしながらも、常に真面目な彼女は先程の疑問を思い出す。

「そうだ、丁度いい。私が直接確認しよう。お前、ちょっとそこに座れ」

そう言って、当主の少女は従僕にソファに座るように指示する。

その意図がわからず、首をかしげる老執事と、表情は変わらないが『なんだ?』と疑問符を頭に浮かべる従僕。

「いいから、さっさと座れ」

少女の真剣な命令に、しょうがないと云った態度で従僕はソファに腰掛け、執事はそれをそれを静かに見守った。男どもには、責務に忠実な少女の意図が全くわかっていないようだ。

この大きな体躯を持つ吸血鬼は、静かにソファに座って、近づいてくる主をじっと見つめる。

緋色のコートと鍔の広い同じ色の帽子を深くかぶり、昼色のサングラスを身につけて座る巨躯の男に少女は恐れ気も無く近づいた。

そして、従僕の前に立ち、「取るぞ」と声を掛けてから、その帽子とサングラスを主の手で自ら取り去って、テーブルの上に置く。

魅惑の鼓動を刻む少女の手から直接、帽子とサングラスを取り外された従僕は、何やらサワサワとした嬉しさを呼び起こされたのだが、そんな心情は無論、無表情の仮面の下だ。

ブルーの瞳を持つ自分の主に、間近に覗き込まれた従僕は、いったい何事が始まるのかと赤い瞳を瞬かせて少女を見やる。

年老いた執事も、主がいったい何を始めるのやら幾分驚きの表情を浮かべ、その様子を見つめていた。

少女はその繊細な手から自分のグローブを抜き取って細く長い指を露にすると、その指先をそおっと従僕の唇に近づける。

『インテグラお嬢さま、いったい何を!!』

『我が主の指先が唇にふれる!?』

そんな男たちの心の叫びが、全く聴こえない主の少女は、そのまま繊細な指先を従僕の唇に触れさせ、ひと言「お前の唇は、冷たいんだな。」と死人に当たり前のことを呟いてから、その酷薄そうな唇の端を摘み上げ、ムニィィィィとそれをめくり上げた。

『ちょっと、お嬢さんッ!何してんのーーーーーッ!!』と二人の男は同時に心で叫んだが、やはり男の気持ちには全くもって疎い少女には、その言葉は届かない。

「おおっ!お前ッ!!全部牙だぞっ、キバ!てっきり牙なのは、乱杭歯だけだと思ってたんだが、全部が牙だったとは驚きだな!!」

少女は1オクターブ高い声を上げて、感心したといった声を上げる。

そして、更にムニィィィィと唇をめくり上げ、その恐るべき牙の生えた口を覗き込んだ。

「おい、これじゃサメとかワニといった歯じゃないか!!・・・そっか、肉食獣だからこうなのか!!」

妙な理屈をつけて一人で納得し、ふむふむと頷くとさらにその牙へとそおっと指をあてる。

『ちょっと、お嬢さま、危険です!!そんなに近づいては噛まれます!というか、その下心たっぷりの吸血鬼に【喰われ】てしまいますーーッ!!』

この化け物が今の自分の主をことのほか気に入っている素振を見抜いている老執事が、内心、心配の悲鳴を上げるが、その心配は若い当主には全く届かない。

『......ッ!!』片や従僕は内心嬉しくってしょうがない。

『誰が肉食獣だ?!』という突っ込みを内心入れながら、犬である男は見えない尾を千切れんばかりに振って、その唇にあたる主の温かい指の感触を楽しんでいた。その内その繊細で美しい指を、しゃぶらんばかりの勢いである。

「こんな歯じゃ、間違って舌を噛んだ時とか、頬の内側を噛んでしまった時、大変な怪我をするだろうな。全部牙というのは、厄介そうだな」

そう、真剣につぶやく少女を見ながら、『......そんな馬鹿なことを、誰がするするものか』と従僕は思う。

すると「......おい、お前。今、私を馬鹿にしただろう。食事をしたり、難しい単語をしゃべった時に、私はよく口の中を噛むんだ。そう言う人間もいるんだ、知らんのか?馬鹿者が」と少女はむっつりと言った。

男の気持ちや欲望には疎いが、嘲笑や侮蔑、愚弄には恐ろしいほど聡いようだ。

そして男の唇を持ち上げたまま、その噛み合わせを点検するインテグラ。

「こんな牙なのに、見事な噛み合わせだな。虫歯もないし、歯肉も健康そのものだ。顔色は病的なのに、歯肉の色が健康的な赤だって言うのは些か解せんが、まあ、いいだろう。矯正する必要もなさそうだ」

『歯の矯正は必要なくても、その男には性格の矯正は必要でしょうな』

年老いた執事の内なる心の声が届いたのか、吸血鬼の男はギロリと目線を元同僚のゴミ処理屋に移す。

そして、その魔眼を細めて年老いた元同僚を睨んだ。

その時だった。

従僕を覗き込んでいた少女のサラサラとした美しい金色の髪が、自分の頬にすべり落ちてきて、その感触の心地よさに、魔物の男は悦楽を味わった。自分に触れる温かい繊細な指も、その吐息も、体から漂う芳しい香りも、ゆっくりと刻まれる鼓動も、すべて化け物を魅了するものだった。

男は一瞬妖艶な笑みを顔に作ってから、執事の男に勝ち誇ったような顔を作ってみせる。それは、『これ、いいだろう~』と言わんばかりの嫌な笑み。

手を伸ばしてその細い体を拘束し、美しい女のラインを作りつつあるその魅惑の首筋に唇を寄せたい欲望を抑えながら、化け物の男は主のしたいがままに任せた。

すると少女は納得したのか、ひとつ大きく頷くと、その繊細な指先を吸血鬼の唇から離した。

「異常があるとは思えんが、歯のメンテナンスは大切だ。ましてや吸血鬼だから歯は命だろう。歯の噛み合せは力を出す時の源にもなる。おい、従僕、歯磨きを忘れるな。それからフロスも使うように」

少女の命令に、離された指先の温かさを惜しみつつも「認識した、我が主。」と従僕は慇懃に応えた。

そしてうら若き当主は、執事へと命令する。

「こいつ専用の歯ブラシと、牙にも対応できるフロスを準備しろ。対応できるものが無かったら、機関の者に命じて至急作らせるように」

その少女の命令に、こちらも馬鹿丁寧に「畏まりました、お嬢さま」と応える。

そして、特務機関の長の役目を終えた少女の局長は、その長い髪を翻し執務机へと向かう。席に座った彼女は、「あぁ、そうだ」といってから、従僕に声をかけた。

「おい、従僕。今度から機関でお前の体の健康状態を調べてもらう時は、歯を見てもらうのも忘れないようにしろ。」と付け加える。

すると即、「それは嫌だ。」という子供のような応えがあった。

主の少女が怪訝な顔で従僕を見つめると、吸血鬼の男は言う。

「牙は私の吸血鬼であると云う大切なアイデンティティーだ。私はこれで五百年以上の歴史を培ってきたんだ。それを『はい、そうですか』と何処の犬ともわからん奴らに触られるのはご免こうむる。まあ、主だったら特別だから、また触らせてやってもよいが」

男はその心情を読み取らせない齢五百年の余裕を持って、無表情でそう告げた。

『こいつの口車に乗っかってはいけませぇぇぇぇん、お嬢さまッ!!』

執事が心で雄叫びを上げるが、そう言ったものはこの主に伝わるはずもないのだ。

―― そう言うものなのか?吸血鬼たる自信の由来がそこにあるのか??確かに自尊心が高く矜持も持ち合わせた化け物だ。嫌がるこいつを検診しようとした医師が、牙で傷つけられてグールやドラキュリーナになる事故が起こったら大変だな。

そう考えた若い当主の女は、自分が従僕の恰好の玩具にされつつあるのが認識出来ていなかった。

「私は歯科医師の免許もないし、歯科衛生士の資格も無いが、お前がそこまで言うのなら仕方が無い。今度私がメンテナンスに行った時、点検項目をチェックする表を貰ってくるから、それで対応してやる。それでいいか、従僕?」

いいもなにも、ないのである。

これ以上、この男を歓喜させるものが他にあろうか?!

男は声を出して笑いたい気持ちを抑え、無表情のまま返事をする。

「Sir ,Yes Sir My Master.」

アーカードはそうゆっくりと口にすると、とても美しい笑いを作って見せたのだった。

うら若き当主の少女は、自ら男の恰好の遊び道具になることを了承してしまったのだ。

そんな事とは露知らず、幼い局長は化け物の男の返事に了解の頷きを返し、執務に取り掛かる。

そして、「従僕、今日は今のところ出動の予定は無い。」とだけ冷たい声音で告げると、黙々と書類を読み始めるのだった。

その主の言葉に了解の返事をした吸血鬼は、そのままソファの背凭れによりかかり、懐からだした血液パックを啜り始める。

それはいつもよく見る、日常の執務室の光景であった。



2008.2.21のブログより

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