※ 死者の匂いがきになるお年ごろのお嬢様


「おかえり、アーカード」

いまだ、ぎごちない様子だが、それでもここ半年で少しは主人の心構えで従僕に接することが出来るようになったインテグラは、夜も更けてから執務室に任務完了の報告をしにやって来た大きな身体を持つ自分の従僕に、そう生真面目に挨拶をした。

「ただいま、我が主」

相変わらず低くて何の感情も含めない声音だったし、白皙の顔にも何ら表情が浮かんでいる訳ではなかったが、それなりに付き合いの長い執事だけは、その不死者の王とあだ名される男の、隠された嬉しそうな気配を読み取っていた。

この化け物は、間違いなく、今、目の前に居るこの幼い少女を今までの当主にの中でも、いたく気に入っているのは明らかだろう―― と執事は見当をつけている。

人間であることに誇りと気高さを持つこの幼い少女を、自分が仕えるに値する、自分が認めるに足る、そして自分好みの女主人に密かに育てるべく、この化け物がその冷酷な顔で紅玉の瞳だけを妖しく微笑させながら少女を盗み見ているのをみつける度、執事はチッと心のうちで舌打ちしながら、目を鋭くして牽制の視線を投げかけるのだった。

身体よりはるかに大きい執務机に陣取る少女から、相変わらずの行儀の悪い人外の入室の仕方について小言を貰った吸血鬼は、自分への小言を飽きもせずに吐き出す少女を嘲笑うように、ニィ~っと口の端を吊り上げて、乱杭歯を見せて皮肉っぽく微笑してみせた。

「任務完了だ、我が主」

少女の小言など無視してそう告げた男は、慇懃すぎる丁寧な礼をとって、インテグラから貰ったオーダーの報告をしたのだった。

今は帽子もマチネ色のサングラスもしていない秀麗で蒼白な顔に浮かぶ、嘲笑が含まれた皮肉な微笑を見た少女は、それがこの男の挑発だとは今だ気付かずに、ムッとした顔を作る。

この最狂で最強な不死者の王とあだ名される高過ぎる自尊心を持った従僕に、今だ不甲斐ない幼い主人の己は侮られてばかりだ―― と、インテグラは不快に歪ませた顔の口の端に、歳に似合わないわずかな苦嘆を滲ませたのだった。

だが、その時だった。

男が巨躯を折って礼をとった上体を優雅にゆっくりと起こしたとき、さらさらとした漆黒の長い絹糸のような髪が、細く開けてあった執務室の窓から流れ込んだ風で、ふわりと夜の指先に弄ばれるようになびいた。

濃い紫色した夜の冷たい風が、男の美貌を鋭角に彩る頬を撫で、その愛撫の指先がさらに髪を弄ぶようにするすると戯れたとき、少女は男から香る蚕蛾(かいこが)のような死者の麝香の香りを嗅ぎ取るのだった。

それは苦いのに甘い、血の香り。

暴力と狂気の気配に浸されている、美しい金彩が施された黒い紙箱の中で飼われている蚕のような・・・・・・死者の腐臭と紙一重ともいえる退廃の香りだった。

不快ではない。さりとて快でもない。人の神経を逆撫でるのものなのに、惹かれて止まぬ、退廃と死の予兆。

死者が生者を惹きつける麝香のような―― 死と狂気と暴力を振りまく、退廃を纏った、そんな吸血鬼の香りだった。

少女はその香りに、わずかに顔を顰める。

そして机の脇に立ち、今書き上げたばかりの報告や各所への連絡なども含めた書類の束をとんとんと揃えている、忠実な執事の顔を見たのだが、年老いた男はただ『何でございましょう?』という、細めた目つきで主人を見ただけだった。

―― ウォルターは、この匂いが気にならないのかしら?

そう少女が思ったとき、また細くあけた窓から吹き込んできた風が、男の秀麗な頬を嬲り、死者の香りを少女の鼻腔まで届けた。

インテグラは、再びその香りを嗅ぐと、小首を傾げる。

脇に居る執事は、その香りに気がつかないのか、あるいは慣れてしまっているのかは判断できなかったが、インテグラは生者の神経を摘んでぴりぴりと震わせる死者の甘くて苦いその麝香の香りに、居ても立っても居られなくなったのだった。

顔を生真面目なものに変えた少女は立ち上がると、机を迂回してツカツカと男の側に歩み寄る。

いきなり無口になって吸血鬼の側に立った少女を見た男ふたりは、何事か?と自分たちの主人を、目を細めて見つめたのだった。

―― 何だ?今回はイヤに静かに怒ったものだな。

瞳を硬質なものに変えて、下から睨みあげるように自分を見つめる少女を見下ろした吸血鬼は、訝しい思いでインテグラの青玉の視線を受けとめた。

普段は、「お前って、そうやって私を馬鹿にしてばっかりなのねッ!」と激昂に等しい怒りを見せる少女なのに、今日に限っては口を引き結び、表情を冷たくしているのだ。

少女の強く引き結ばれていた口が開かれ、その艶やかな唇から、硬質な声音で命令が響く。

「アーカード、屈みなさい。私の顔の位置まで、その上背を屈めるのよ」

さては、この勝気な少女はさすがに腹に据えかねて、己に平手か拳骨をかますらしい―― そう判断した吸血鬼は、口の端をさらに上げると、インテグラを挑発すべく明らかな嘲笑を作って見せた。

―― 気の強い女と云うのも悪くはないものだ。ましてやこれは私の主人なのだし

主人の気概を示そうと云うのだろう、とそう思った従僕は、少女が頬を張りやすい位置にまで、ゆっくりと優雅に身を屈める。

歳若い少女に頬を張られてみるのも悪くはない―― 男はわざと秀麗な顔に美しい冷酷な笑みを浮かべて、少女の顔の高さまで上背を屈めるのだった。

だが、男が90度に近い位置まで腰を折ったのを見た少女は、そのやり取りを眺めていた執事が意表を衝かれて、珍しく目をむくようなことをやってのけた。

まだ細い、肉付きが豊かとはお世辞にも言えないその両腕を、少女は男のがっしりとした首に回す。そして、その華奢な腕で男の首を絡め取ると、自分の鼻先を男の白蝋色した項の辺りへとそっと埋めたのだった。

脈を刻まぬ冷たい冷たい死人の項に、温かい少女の息が吹きかけられ、その長いまつげの先と温かい唇と鼻先が肌に触れるか触れぬかの接触に、さすがの吸血鬼も驚きを隠しえず、一瞬だけ目を見開いた。

だが、それでも一瞬だけで、この歳経た男はその動揺を直ぐに冷たい顔の下に押し隠したのだったが。

間近で感じる少女の鼓動は耳に心地よく、その鼓動と共に脈を刻む血潮は、肌を通して芳香を放ち、吸血鬼の鼻腔をくすぐる。

この少女を、自分の冷たい腕(かいな)に閉じ込めて、壊れるほど抱きしめればもっと心地よい温もりが得られるだろう。気高い魂を持つヘルシングの少女は、それを抱いた吸血鬼を陶酔とさせる力を確実に有しているようだ!

そう感じた吸血鬼だったが、男はその冷え切った魂を揺さぶる誘惑に屈して少女の身体を抱きしめることはせず、少女からの抱擁にただ身を任せ、獲物を確実に狩るための自制心を働かせながら、少女の真意を探ろうと瞳孔を細めたのだった。

「やっぱり、お前の香りなのね」

男の項から顔を上げた少女は、腕を男の首に巻いたままそう呟くように言って、間近で吸血鬼の顔を覗き込んだ。

「香りだって、インテグラ?」

「何か臭うのでございますか、お嬢様?」

ふたりの男の声が重なり、少女はそのふたつの問いに「うん」と頷く。

「この神経を逆なでするような香りに、お前たちは気が付かないの?」

そう言った少女は、ウォルターの顔を小首を傾げて見つめてから、次いで、その視線をアーカードに据えた。

「そんなことを言われたのは初めてだが。何の香りだというのだ、インテグラ?」

「いえ、気がつきませんでした。何の臭いがするのでしょう、お嬢さま?」

またふたりが声を揃えて返したのに、インテグラはう~~ん・・・と唸って小首を傾げる。そしてまた、自分の鼻先をもう一度男の項に埋めたのだった。

焦がれる想いを己に自覚させた少女からの麗しい抱擁に、アーカードは目を細め妖美な顔を作る。そして、口の端をニィっと意地悪く上げ、その目を元同僚の死神に向けるのだった。

可憐さを秘めた麗しいヘルシングの乙女からの温かい抱擁など、執事のお前は受けたことがないだろう、ウォルター? 吸血鬼の顔は、明らかにそんな風に執事を挑発するものだった。

その化け物の高邁な自慢の仕方に、執事は瞳を冷たいものに変え、アーカードを睨み返す。

だが少女は男たちのそんな無言の攻防には気付かずに、冷たい肌をした従僕の香りを熱心に分析するのだった。

「これは・・・『死』と『暴力』と『狂気』に―― 何かしら...そう、『血』の香りが混ざった、『吸血鬼』の香りだわ!アーカード、お前のこれは『吸血鬼臭』よ!!生者を死へと誘惑しようとする、そんな匂いだわ。」

「―― 吸血鬼臭?なんだそれは・・・・・・?」

「吸血鬼臭ですと!!それはまた臭そうな・・・」

その言葉を聴いた男ふたりは、どちらとも不快そうな顔を作った。

「そうねぇ~ 私の経験から言えば、これは蚕蛾(かいこが)の匂いよ。あるいは繭出しするときの、あの生臭いのに死臭をも含む、神経をざわざわさせる、そんな香りに近いわね」

少女は、不死者の王と呼ばれる男が漂わせる退廃を、「蚕蛾」とか、繭を作り終えて中でサナギになった蚕を熱した大釜の湯で茹でて糸をとる「繭出し」とか、そんな不遜な匂いに例えた。

それを聴いた老執事は、『それ見たことか、お前は蛾の匂いだそうだ!!』と、皮肉気に目を細ませて、口の端で現役ゴミ処理屋を嘲笑う。その視線を受けて、チッと内心舌打ちした吸血鬼は、紅玉の目を細めて執事を睨みつけた。

そこで、「そうだわッ!」と声を上げた少女は、男の首に回していた腕を解くと、乱暴にそのリボンタイをグイッと引っ張った。

「ねぇ、お前って、ちゃんとお風呂に入ってるの?」

その質問に、アーカードは器用に片眉を上げる。

「風呂だと?私がそんなものに入る訳がなかろうが。私は新陳代謝とは無縁の死体なんだぞ。汗すらかかぬ化け物が、何故風呂に入らねばならんのだ、馬鹿かお前は。」

お気に入りの少女から蛾の匂い呼ばわりされた男は、不機嫌さを冷たい声音に摩り替えて、そう冷酷な声で言う。だが少女はその冷酷な声音を気にせず、驚愕の顔を作ったのだった。

「ええっ!入ったことがないのッ?!シャワーすら浴びたことがないのねーッ!?じゃあこれは、お前が殲滅を繰り返して吸血鬼やグールの血肉と腐臭を浴び続けてこびり付いた香りなのねッ!!」

吸血鬼が持つ退廃と滅びへの誘い(いざない)を漂わせる、死者が生者を惹きつけるビロードの手触りの麝香を、この少女は殲滅をこびり付かせた汚れから発せられるものだと判断したらしい。

少女は、『信じられない!!』という顔つきをすると、「何てことなのっ!」と天を仰いで嘆息したのだった。

「仕事も一区切りついたし、丁度いいわ。行くわよ、アーカード!!」

少女はむんずと掴んでいたアーカードの真紅のリボンタイを、まるで犬のリードのようにグイグイと引っ張る。

「何処へ行くというのだ?」

「お嬢さま、一体何をなさるおつもりで?」

命感に燃えた青の眼差しで、吸血鬼のリボンタイをグイグイと引っ張る少女へと、また男たちの疑問が同時にかぶさった。

「洗うのよ、この吸血鬼を!!今から私の部屋の浴室に連れて行って、綺麗さっぱり洗ってやるのよッ!」

少女は握っていたリボンタイをぱっと払うと、振り返りざま使命感に裏打ちされた真剣な眼差しで、自分を凝視する男たちを、青の瞳で凛々しく見つめたのだった。

だが、その真剣な目線の先にいた男たちは、素っ頓狂な眉の上げ方をして、自分たちの主人を、唯、唖然と見つめるだけだった。

―― 私の衣類を剥いて、この身体を浴室で自らの手で洗おうというのかッ?!

―― この変態吸血鬼に対して、そっ、それは余りにも危険なッ!!

世にはそんな性的快楽を伴うサービスを提供してくれる場所もあろうが、何もお嬢さまが自らこんな女誑しの危険な吸血鬼相手にそんな遊女のような真似をーーッ!!と心の中で絶叫をかますも、その心配が顔に出ない老執事。

そして吸血鬼の方も、浴室で全裸に剥かれ、その温かい華奢な手で揉み解されように愛撫される快楽と、流れに水に身を晒す嫌悪感という、究極の狭間に立たされる己の姿を妄想して腹の中で唸り声を発していたが、その葛藤は全く顔に出ず、相変わらず冷たい無表情だった。

そんなふたりの男たちの無言の顔を見たインテグラは、何故か一瞬むっとした表情を作ったが、それをすぐ笑顔に変えた。

「ふたりとも大丈夫よ。心配しないで。こう見えても私、飼い犬を洗うのは得意だったのよ!自分が飼う犬を清潔に手入れしてあげるくらい、私にも出来るから大丈夫よ!」

聡いくせに鈍感で、ちょっと万人と思考回路がズレ気味な、化け物を殲滅することにだけ己の使命を見出している少女は、男どもの無言を、『この少女に、そんなことが出来るのだろうか?』という心配として捉えたらしかった。

やはりこの少女は、男たちの思考回路を、相変わらず全く読めないのだった。

「さあ、だから犬の姿になるのよ、アーカード。浴槽に入るくらいの大きさに合わせて、犬の姿になってね」

―― さすがに裸に剥いた男を洗うのは躊躇われる......そんな羞恥心は持ち合わせがあるようだ

元ゴミ処理屋と、現役ゴミ処理屋は、同時に同じことを考えたが、少女はそんな男たちの視線の意図など全く素知らぬ顔で、昔飼っていた犬を洗ってやったことを思い出しながら、少しワクワクした目つきをしていた。

「私は吸血鬼だぞ。流れ水をぶっかけられるなんぞ、嫌に決まっているだろう」

犬の姿に変わっても、少女の手で身体の隅々を洗ってもらうのは、やはり心地よいことなのではないだろうか?と自問しつつも、吸血鬼は内心の葛藤を押し隠して、少女にそう苦情を告げる。

「そうだったわ・・・・・・流れ水が苦手なのよね、お前は」

「苦手じゃない。嫌いなだけだ」憮然とした顔でそう反論する吸血鬼の顔を見ていた老執事は眉を顰めたが、その目の端のシワは幾分笑いが含まれていた。

不死者の王、最強の吸血鬼と呼ばれる男が犬に姿を変えて、水を嫌悪しながら尾を股の間に挟んで、みじめったらしく毛を濡らしている姿を想像しただけで、かなり笑えるのは確かであった。

「じゃあ、約束するわ。じゃぶしゃぶと乱暴に洗うことは絶対にしないわ。お前が苦手だっていうなら、出来るだけ優しく洗って上げるから。それでどうかしら、アーカード?」

女からの特上の申し出に、吸血鬼は目を細め、魔物の思考で何やら案をめぐらす。

この男は狡猾かつ、老獪なのだ。

先ほど、自分の首に手を絡めた少女の、温かい鼻先と唇を肌に感じたときの心地よさを思い出した吸血鬼は、流れ水に浸る嫌悪よりも、自分が手に入れたい対象と強欲な魔物の欲望に忠実であるほうを選び取るのだった。

―― せっかくの主人からの申し出なのだ。これを断る道理はない。

男は魔物の狡猾で残忍な笑いを腹の底に押し隠し、わざと冷酷な顔に神妙な面(おもて)を取り繕った。

「お前自身がちゃんと責任を持って洗うのか?人に任せたりはせぬのだな?」

「大丈夫よ。お前は私の飼犬だもの。私が飼い主の責務を果たすわ。」

そんな主従の会話を聞いていた執事は、眉を潜める。

これはどう考えても、流れ水が苦手なこの吸血鬼が、その嫌悪を押し殺してまでも、少女に狙いを定めたと言う事ではないのだろうか?

「お嬢さま。ヘルシング家で飼う犬のお手入れでしたら、誰か専任者をつければよかろうと思わ――」

そう言いかけた執事を手で制して話を止めた少女は、出来うる限り主人の威厳をもってこう告げた。

「いいのよ、ウォルター。アーカードの主人は私だし、私以外の命令は聴かないわ、この男は。私はちゃんと主人の責務を果たさなければいけないのよ」

主人と指揮者の心構えを常に胸に秘める少女は、自分の飼い犬から腐臭を放たせることなど出来ぬと、健気にもそう言うのだった。

―― だからお嬢さま、そう言う責務ではないのですぞッ!!

ウォルターが更に何か言いかけようと口を開けたが、邪魔はさせぬとばかり、下心たっぷりの吸血鬼が増大した下品で淫猥な欲望を、秀麗で冷たい顔の下に押し隠し、急いで口を挟みこんだ。

「では、毎回、ちゃんとお前自身が、お前の浴室で、私を洗ってくれると約束するのだな?」

「もちろんよ、約束するわ、アーカード」

―― やってしまいましたぞ!!化け物に言質をとらせてしまいましたぞ、お嬢さまッ!!

人間を誑かして魂を狩り血をすする、暴力と狂気を振りまくことに躊躇すらないこの歳経た化け物に、大変な約束をしたものだ!―― と、執事は片頬を引きつらせた。

今までだって、主人の自覚を欠いて隙を見せれば「捕って喰う」と言わんばかりの化け物の様子だったのだ。これでは隙を見せた途端、別な意味で喰われるのではないか?―― と、執事は眉をハの字にした。

だが、そんな執事の心配を余所に、少女は屈託のない顔を見せる。

「何も心配ないわ、ウォルター。私だって飼い犬のお手入れくらい、ちゃんとできるのよ」

そう言った少女は、秀麗な顔でいつもの無表情ながら、普段にも増して紅の瞳を煌々と発光するように瞬かせているアーカードのコートの袖口を引っ張ったのだった。

「さあ、行くわよ、吸血鬼。そんなに心配しなくてもいいから」

男が顔から表情を消し去っているのを、この少女は『心配しいるらしい』と、勘違いしたようだった。

だが、化け物の男にしてみれば、魔物の欲望と執拗な淫猥さを持って、この高潔な少女をどうやって弄んでやろうと、高笑いしたいほどの腹の中であったが。

「・・・・・・では、行ってらっしゃいませ、お嬢さま。」

―― どうか御無事でッ!

そう心の中で執事が叫んでいるのに気が付かず、少女は吸血鬼の緋色のコートの袖を引っ張ると、アーカードを後ろに従えて歩き出す。

まさか己の持つ生真面目さと責任感が、自分を窮地へと陥れることになる言質を与えたとは、今は知る由もない少女は、化け物を従えて軽やかに歩みを進めるのだ。

己を心地よい境地へと誘ってくれるだろうその少女のそんな先導に、吸血鬼の男は背中に刺さる痛いような執事の視線などは無視して、目だけで細く妖美に笑う。

そして、鼓動を刻まぬ冷えきった心の内で、老獪で淫靡な策をゆっくりと練りながら、自分が焦がれる少女の後ろをついて行くのだが・・・・・・この後、ガシガシ、ジャブジャブ、ガッガツと乱暴に、乱雑に、まるで汚れた衣類のように、あるいは臭いボロ雑巾を扱うがごとく泡まみれで洗われて、もう二度と主からお手入れしてもらおうなどと思わないくらいにダメージを与えられることを、この時まだ吸血鬼は予想すらしていないのだった。



2009.6.17のブログを若干修正、2009.6.29

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